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【第3回】美術館は誰のもの?「正の外部性」から考えてみる

更新日 : 2024年09月24日 (火)

【第3回】美術館は誰のもの?「正の外部性」から考えてみる


ボストンにある美術館といえば岡倉天心も在籍したボストン美術館が有名ですが、私が忘れられないのはイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館です。ベネチアの宮殿を模したという建物に足を踏み入れると、そこは中世の貴族の館に迷い込んだような別世界。ガードナー夫人の芸術に対する思い入れをそのまま具現化したこの美術館は、空間を丸ごと体験するような没入感があり、訪れる人に強烈な印象を残します。1990年にレンブラントやフェルメールの作品を含めた13点の名作が盗み出された未解決事件がらみでこの美術館の名前を聞いた方もいるかもしれません。

ガードナー夫人は裕福な貿易商であった父の遺産で世界中から収集した絵画、彫刻彫像、織物、家具、陶磁器などの美術品コレクションを収蔵するために土地を購入し、建築家の助言のもと美術館を設計し、美術品の配置にいたるまですべてを自ら手がけました。彼女は美術館に1億2千万ドルを寄贈し、美術品の配置を永久に維持するようにと遺言で定めました。

美術館には「正の外部性」がある
最近あるニュースに接してこの美術館のことを久々に思い出しました。千葉県佐倉市にあるDIC川村記念美術館が2025年1月に休館するというニュースです。私がこの美術館を初めて訪れたのは昨年のこと。都心から車で1時間ほど走るとお伽話に出てくるお城のような美術館が忽然と現れます。丸い塔が印象的な美術館本館は戦後モダニズムの代表的建築家、海老原一郎の手によるもので、約3万坪の広大な庭園には白鳥がゆったりと泳ぎ、小道には四季の花々が咲き、遮るもののない空と一体となった広場が配されています。庭園や駐車場は無料なうえに、佐倉駅から無料の送迎バスが出ています。

DIC川村記念美術館は大日本インキ(DICの前身)二代目の川村勝巳が蒐集した美術作品を展示するためにつくられました。ピカソ、シャガールなどの近代西洋美術のほか、ロスコ—、ステラ、ポロックなど20世紀後半のアメリカ美術を中心とするコレクションは世界的にも高く評価されています。閉鎖に至った経緯は、「保有資産という観点から見た場合、特に資本効率という側面においては必ずしも有効活用されておらず、資本効率の改善を重要な経営課題に掲げる当社として、社会的価値と経済的価値の両面から、美術館運営の位置付けを再検討すべき」という認識から、社外取締役と社外有識者から成る価値共創委員会に助言をあおぎ、その結果、「ダウンサイズ&リロケーション」もしくは「美術館運営の中止」という結論に至った、というものです。

一般的に事業に貢献していない資産は、売却することによりバランスシートが改善します。DICは2023年12月期に398億円の赤字を計上しており、そこだけ切り取れば遊休資産の売却は、上場企業にとって教科書通りの経営判断といえるでしょう。美術館閉鎖の発表は今年の8月末でしたが、美術館に隣接するDIC川村理化学研究所は今年の3月に閉鎖されています。当時は話題になりませんでしたが、同じ敷地内にある美術館の閉鎖についてはメディアもとりあげ、アート関係者以外からも大きな反響を呼びました。

企業が自社の所有する資産を処分するというありきたりのことが、顧客でも株主でもない人たちからこれほどの反応があるのはなぜなのか。ひとついえるのは、美術館には「正の外部性」があるということです。「外部性」とは経済学の概念で、ある経済活動が直接の関係者以外に損害または利益をもたらすことを指します。たとえば生産活動による公害は、生産者とその生産物の購入者以外に害を及ぼすので「負の外部性」があるとされます。その逆が「正の外部性」で、典型的な例が教育です。教育は、社会全体の生産性を向上させることを通じて、それを受ける人と担う人以外にも利益をもたらします。美術館には文化水準の向上、アート市場の発展、芸術作品の維持継承、さらには観光振興や地方創生につながるという正の外部性があるといえるでしょう。DIC川村記念美術館は、広大な敷地内の多様な動植物を保護するという環境・生物多様性保全にも貢献しています。

多くのファンのモヤモヤの理由
「共有地の悲劇」という言葉を聞いたことがある方も多いでしょう。皆が共有している牧草地では個々の農家はできるだけ多く牛を放とうとするので牧草が回復不可能になるまで食いつくされる、というのがもとの意味ですが、負の外部性によって共有資源が枯渇する現象をさしています。その反対の「反共有地の悲劇」という現象も知られています。公共性の高い財が細分化されて私有されることにより、社会全体にとって有用な資源の活用が妨げられることを指します。こうした悲劇を起こさないためには、外部性を内部化する必要があります。正の外部性を内部化するにはそのコストを誰かが負担する必要があります。イザベラ・スチュアート・ガードナー美術館の場合、それは創館者本人が寄付金というかたちで拠出し、現在美術館は非営利団体が運営しています。

DIC川村記念美術館閉鎖のニュースについて、私を含め多くのファンがもつモヤモヤは、「なぜ美術館運営を本業から切り離しておかなかったのか」ということでしょう。現に大原美術館、サントリー美術館、ポーラ美術館、アーティゾン美術館(旧ブリジストン美術館)など多くの企業ミュージアムは公益財団法人によって運営されています。DICが美術館を経営から切り離さなかったのは、単純に考えて「切り離さないことのメリット」があったからでしょう。現にDICはこれまでも所蔵作品の売却益による特別利益で経営の急場をしのいできました。2013年には現代抽象絵画の名品、バーネット・ニューマンの「アンナの光」を売却し、2018年には長谷川等伯、尾形光琳、横山大観など、重要文化財を含む日本画のコレクションすべてを手放しています。美術館を閉鎖する以外の選択肢として、コレクションを縮小して東京に移転するという案も検討されていますが、これは貨幣価値に換算できる美術品と、換算できない社会的価値を切り離すという判断のようにも見えます。

営利企業において正の外部性を内部化するもう一つの方法として、ベネフィットコーポレーションという法人形態があります。この法人形態の下では営利企業でありつつ、株主利益に直結しない公益事業を追求することが法的に認められています。日本ではまだ導入されていませんが、アメリカでは40以上の州で法制化されています。法人格の取得に関しては定款上で、環境保全、文化芸術の振興といった特定公益の便益を規定することが求められ、関連する活動に関して説明責任があるとされます。

国内外に広がる存続を求める声
DIC川村記念美術館は、「地域への社会貢献活動の一環として、また、経営ビジョンの象徴のひとつ」として運営されてきましたが、同社の価値共創委員会によれば、今後の美術館運営並びに現在保有する美術品の位置づけは、「①(当社の)発展の歴史を象徴するコーポレートアイデンティティの一部 ②経営ビジョンを強化し、他社から差別化するもの ③その公開・保存管理・後世への継承に伴う活動が、文化資産を保有する者としての責務であるとともに、当社の価値観・行動指針を体現するもの」となっています。「地域への社会貢献活動」という言葉が抜け落ちています。

佐倉市役所魅力推進部文化課を事務局として「DIC川村記念美術館の佐倉市での存続を求める署名」運動も始まりました。その呼びかけには「国内外からの評価も高く、芸術・自然・建築が高いレベルで調和するDIC川村記念美術館は、それ自体がひとつの「作品」であり、移転・閉館といった運営方法の見直しは、佐倉市、千葉県にとってのみならず、我が国の文化芸術の普及・発展にとっても大きな損失となります」とあります。まったく同感です。わたしも署名をしました。しかし「関係者の皆さまに再考を求める」といっても、そのコストを誰が負担するのか、という議論がないままでは、休館から閉鎖もしくは縮小移転という既定路線を覆すのは困難と言わざるをえないでしょう。

執筆者:中嶋 愛
編集者。ビジネス系出版社で雑誌、単行本、ウェブコンテンツの編集に携わったのち、ソーシャルイノベーションの専門誌、Stanford Social Innovation Reviewの日本版立ち上げに参画。「スタンフォード・ソーシャルイノベーション・レビュー 日本版」創刊編集長。スタンフォード大学修士修了。同志社大学客員教授。庭と建築巡りが好きです。