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【第2回】「コンヴィヴィアリティ」の視点で、厳しい暑さを乗り切るには?

更新日 : 2024年08月21日 (水)

【第2回】「コンヴィヴィアリティ」の視点で、厳しい暑さを乗り切るには?



立秋を過ぎても暑さが続いています。テレビのニュースキャスターの「明日も厳しい暑さになります。不要不急の外出を控え、我慢せずエアコンを使用したりのどが渇いていなくてもこまめに水分や塩分を補給したりするなど、対策を取ってください」というコメントがもはや決まり文句のようになってきました。2024年7月の平均気温は観測史上最高だったそうです。この暑さは気候変動の一環で、その気候変動には人類が加担しているということについては世界的なコンセンサスがあります。未来の世代に生存可能な地球環境を残すために、現世代は気候変動に歯止めをかけるための対策を早急に打つべきであるということに異論のある人はほとんどいないでしょう。

かつては真夏と真冬は電力需給がひっ迫するので、「電気はこまめに切りましょう」とか「エアコンの温度設定は28度(冬は20度)」といった、エアコン使用を抑制しようというメッセージが主流でした。いまや当たり前となったクールビズもエアコンの使用量を減らすために導入されました。「弱冷房車」というものがあります。普通の車両の冷房だと寒いというお客様のために設けられた「涼しさ控えめ」の車両です。省エネルギーという地球一丸の目標と個人の体質に合わせたサービスを両立させるのなら、むしろ「弱冷房車」をスタンダードにして、暑さに弱い人のための特別車両(強冷房車?)をつくったらいいのではないかと思います。

2011年の東日本大震災で福島の原発事故があった後しばらくは、節電のため駅や店舗の照明を落としたり、冷暖房の温度を調節したりしていましたが、いつのまにか元通りになりました。あの状態を続けていればどれだけの電力が節約できていたのかと思います。街中どこもかしこも家電量販店のように明るくする必要も、夏は上着がいるほど寒く、冬は上着がいらないほど暖かくすることも必要ないのに、なぜ元通りにしなくてはならなかったのでしょう。

冷暖房がない時代は暑さ、寒さを凌ぐには「風通しを工夫する」とか「着衣を工夫する」とか「活動時間を選ぶ」というぐらいしか対処の仕方しかありませんでした。究極的には「心頭滅却すれば火もまた涼し」といった精神論にまで及ぶほど人間が環境に合わせていたのです。冷暖房機器と電力のインフラが完備されると環境を(部分的に)人間に合わせることが可能になりました。

テクノロジーとはありがたいものです。しかし、それによって環境への負荷は高まっただけでなく、人間の環境適応力も弱まっているように思います(そこに戻ろうとは言いませんが)。健康のために室内を適切な温度に保つというのはきわめて正しいことのように聞こえますが、何が適切かは環境や状況や文化によって変わります。また「適切」が必ずしも「快適」とは限りませんが、いまや適切は快適とほとんど同義です。省エネルギーのためのさまざまなテクノロジーも開発されていますが、それも「快適レベル」を維持することを前提としています。

イヴァン・イリイチという人が1970年代に「道具が一定の点をこえて成長すると、統制・依存・収奪・不能が増大」し、「機械の力が増大するにつれて人間の役割は、ますます消費者の役割におしさげられていく」と指摘しました。イリイチは医療の専門家が増えるにしたがって医療行為の過剰供給が起き、それが新たな疾患を生んだり病を悪化させたりする「医源病」が、医療以外の分野でも起きていることに警鐘を鳴らしました。たとえば「汚染された河川の救済策がより高くつく汚染浄化剤」の供給であったり、遠隔地を結び付けるために役立つ交通手段が発達したおかげで「節約された時間」よりも長距離移動のために新たに発生する時間のほうが増えてしまったりする状況です。



冷暖房が「あたりまえ」になり、快適な夏や冬が手に入る一方でエネルギー消費は増大し、それが地球温暖化というかたちで人間の生存を脅かしているという構図と重なります。エアコンなしでは生きていけない私たちは電力会社にとってLTV(ライフタイムバリュー)の高いありがたいお客様ですが、私たちは生きるためにそのサービスに対価を払い続ける無力な存在となります。それは、その対価が払えない場合は命の危険に晒されることをも意味します。暑い日は外出せず一日中空調の効いた部屋で過ごすことで熱中症は防げるかもしれませんが、コロナのときの外出制限と同様の社会的な孤立という新たな問題も生みます。また、人間が暑さ寒さを我慢せず空調を使うようになったことがいまの異常な暑さの原因の一部をつくっているとしたらいま私たちが「我慢せず冷房を使う」ことは、未来の世代がさらに暑い夏を耐えなくてはならないということになります。

「人は生まれながらにして、治療したり、慰めたり、移動したり、学んだり、自分の家を建てたり、死者を葬ったりする能力をもっている」とイリイチは言います。そして「大規模な道具が人々の代わりにしてくれる何か“よりよい”ことと引き換えに、人々が、自分の力とおたがいの力でできることを行う生まれつきの能力を放棄するとき、根源的独占が成立する」と警鐘を鳴らします。「根源的独占」とは市場の独占ではなく、「暑いときは外出を控え、エアコンをつけて家の中にいる以外の選択肢がない」と人が考えるような、目に見えない社会管理につながる標準化です。

この根源的独占に抗うために、イリイチは「管理に立ち向かう研究(counterfoil research)」を提唱します。その研究が目指すのは自らが生み出した技術によって無力化されている人間を解放するための社会のかたちを見出すことです。イリイチは新しい社会のかたちを象徴する思想として「コンヴィヴィアリティ」という概念を打ち出しました。イリイチの著書を訳した渡辺京二はこの言葉を「自立共生」と訳しました。人が道具の奴隷ではなく自立した存在として環境を含めた他者と創造的に関わるという意味です。

コンヴィヴィアルな生き方は、私たちが欲してやまない快適さや便利さを手放すことをも意味します。いまやスマホがないと外出できないという人も多いのではないでしょうか。私もそうです。自分がどこにいるかわからない、電車やバスに乗れない。モノが買えない、レストランもホテルも予約できない、公共サービスも受けられない。社会システムがスマホを前提としているため、いまやスマホなしで生活することは社会からの隔絶につながります。重度依存による無力化か、社会からの隔絶か。この二者択一状態を解決するものがコンヴィヴィアリティの思想です。人を無力化するのではなく、エンパワーするのがコンヴィヴィアルなアプローチです。

クールシェアという取り組みがあります。もともと環境省がスーパークールビズの一環として打ち出したものですが、これはコンヴィヴィアルな解決策の一例だと思います。「一人一台のエアコンをやめて、家族が一つの部屋で過ごす」「図書館やショッピングセンターなどに出かける」「自然が多い涼しいところへ行く」といった行動を通じて電力の浪費を減らすと同時に、涼を分かち合うことで人と人、人と地域のつながりを深めることを目指すものです。

涼み処(クールシェアスポット)としてはコミュニティセンターなどの公共施設が多いですが、美容室や理容室、クリニックや銀行などで一般開放しているところもあります。また、東京都内でも緑の多い公園内は気温が3~4度低いので朝夕は25度以下になることもあります(わが家の夏期の朝ランはもっぱら樹木の多い公園内コースです)。

「暑さを我慢せずエアコンを使用する」に代わる選択肢は「暑さを我慢して熱中症になる」だけではないはずです。私たち一人ひとりが「管理に立ち向かう研究」に関わっていくことでその選択肢を増やしていけるのではないでしょうか。
 

《おまけ情報》
クールシェア的な観光スポットとしておすすめなのが栃木県の大谷資料館です。大谷石の地下採掘場跡は広さ2万平方メートル、平均気温8度、真夏でも15度に届かない涼しさです。古代神殿の遺跡のような幻想的な空間で暑さも現実もしばし忘れさせてくれます。
http://www.oya909.co.jp/
 
執筆者:中嶋 愛
編集者。ビジネス系出版社で雑誌、単行本、ウェブコンテンツの編集に携わったのち、ソーシャルイノベーションの専門誌、Stanford Social Innovation Reviewの日本版立ち上げに参画。「スタンフォード・ソーシャルイノベーション・レビュー 日本版」創刊編集長。スタンフォード大学修士修了。同志社大学客員教授。庭と建築巡りが好きです。


コンヴィヴィアリティのための道具

イヴァン・イリイチ, (訳)渡辺 京二, 渡辺 梨佐
ちくま学芸文庫