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【第9回】なぜ日本の学校では子どもたちが掃除をするのか
更新日 : 2025年03月25日
(火)
【第9回】なぜ日本の学校では子どもたちが掃除をするのか

先日、スキーで温泉宿に泊まったときのことです。外国人の高校生団体と一緒だったのですが、彼らが大浴場を使ったあとの脱衣場に入って唖然としました。バスタオルがそこらじゅうに散乱していたのです。TOWEL RETURNと英語で書いた回収箱が浴場の入口に置いてあるにもかかわらず、床、脱衣かご、洗面台などところかまわず使用済みのタオルが投げ捨ててあり、使い捨てブラシ、下着、靴下なども散乱していました。温泉や銭湯で、たまにマナーの悪い人やぎょっとするような忘れ物を見ることはあっても、今回の事件現場のような光景には遭遇したことがありません。そのままにしておくのも気持ちが悪いので、タオルを全部片づけてから温泉に入りました。高校生たちの母国は幸福度ランキングでは常に上位、個を重んじる民主主義教育でも有名な北欧の国です。脱衣場の一件を除けば、フレンドリーで好感の持てる若者たちでした。
私には子どもがいないので、小学校生活といえば自分の体験を思い起こすしかないのですが、このドキュメンタリー映画に出てくる小学校生活は、教室内でタブレット端末を使っていることを除けば、半世紀ほども前にわたしが通った大阪の公立小学校でのそれとほとんど変わっていないように見えました。1989年生まれの山崎監督自身も、撮影対象としてこの小学校を選んだ理由の一つに6年間通った大阪の公立小学校に雰囲気が一番似ていたことをあげています。
フランス在住の日本人の友人が、帰国した時に大学生の息子さんとこの映画を見たそうです。息子さんの感想は「日本の小学校に行かなくてよかった」だったとか。母語の違う多国籍の子供たちが通うパリのインターナショナルスクールで育った彼にとって、「みんなで」「一緒に」「同じように」が多い日本の小学校は窮屈に見えるのかもしれません。教育の専門家でもあるその友人によると、日本の小学校は、学力をつけるだけでなく社会性を養う場であるという点において、世界でも特殊だそうです。この映画では全員で行う掃除や給食当番、放課後の部活動、修学旅行、地域と一体となった運動会など、日本の小学校の社会的機能に焦点をあてています。
イギリスと日本にルーツをもつ山崎監督は、日本の公立小学校に6年通ったあと、神戸のインターナショナルスクールに進みました。そこでは掃除の時間がなく、放課後に業者が入って掃除をしているのを見て衝撃を受けたそうです。実際、生徒自らが学校を掃除するというのは世界的に見てもかなり珍しいことです。多くの国では、清掃作業は専門の業者によって行われることが一般的です。日本でも学校清掃に対して様々な見解はあるものの、その一方で掃除という行為には精神修養、美意識につながるという共通認識もあります。海外でもベストセラーになった『人生がときめく片づけの魔法』やアカデミー賞外国語部門賞にノミネートされた『パーフェクト・デイズ』などに描かれる世界観は、そうした共通認識に根差しているともいえるのではないでしょうか。
映画のなかでは靴箱に入れた靴の揃え方を定規で図ってチェックしている場面もあります。さすがにこれはやりすぎではと思いましたが、茶道や書道でお稽古を通じて細かい所作や手順を身に付けていくこととどこか通じるところもあるようにも思いました。掃除は同調圧力や集団主義の象徴であるという人がいても、茶道や書道についてそんなことをいう人はいないでしょう。掃除という行為の本質は、汚いものをきれいにすることではなく、元あった状態に戻すこと、つまり復元です。誰のために復元するのか。それは「あとから使う人」のためです。「あとから使う人」はその場にはいない、不特定の見えない人たちです。小学校での掃除が他者への思いやりや責任感を育むとされるのは、こうした感覚を身体で覚えるからではないでしょうか。未来の自分も含めたここにはいない人たちのために場を整える。公共空間はその繰り返しによって維持されていきます。
高校卒業後、ニューヨークの大学に進んだ山崎監督は、電車が時間どおりこない、人とすれ違うときによけずにぶつかってくることにとまどいを感じた一方で、無意識にふるまっていても、責任感がある、献身的である、などと評価されることに驚いたそうです。大谷翔平選手がメジャーリーグの試合中にグラウンドのゴミを拾って賞賛されたのとも通じるところがあるかもしれません。人がよけずにぶつかってくるというのは、私もヨーロッパのスキー場で身をもって経験しました。フランスやイタリアのスキー場では技術レベルが高くない人でもすごいスピードを出してかっ飛ばしています。びくびくしながら滑っていたらガイドさんにこう言われました。「他の人のことを気にせず、コースのど真ん中を自分のペースで滑ってください。本当にやばいときは周りの人がよけます。下手な人がよけるにはスペースが必要なので、両端は空けて真ん中を滑るように」。その通りやってみたら、かなり恐怖感は減りました。ただこういう考え方は、集団としての生存率を下げることにもつながりかねないと思います。
この映画は、子どもの主体性を重んじた教育で知られるフィンランドでとりわけ大きな反響があったそうです。冒頭のエピソードに出てくる北欧の国はフィンランドではありませんが、生徒の個性を尊重した教育制度で知られています。この映画だけをもって、日本の初等教育は他国より優れているというつもりは全くありません。実際に日本には小中高で40万人を超えるといわれる不登校児がいるという現実もあります。生徒の多様化、価値観の多様化、教員数の減少などによって、教育現場が疲弊しているという問題もあります。不易流行。いつの時代も変わらない基本と、時代や状況に合わせた変化と、そのバランスをどうやってとっていくか、この映画は学校生活のディテールを教師と生徒双方の目線で丁寧に追い、フラットに描くことで、これからの時代の教育を考えていくための多くの手がかりを用意してくれています。
執筆者:中嶋 愛
編集者。ビジネス系出版社で雑誌、単行本、ウェブコンテンツの編集に携わったのち、ソーシャルイノベーションの専門誌、Stanford Social Innovation Reviewの日本版立ち上げに参画。「スタンフォード・ソーシャルイノベーション・レビュー 日本版」創刊編集長。スタンフォード大学修士修了。同志社大学客員教授。庭と建築巡りが好きです。
ドキュメンタリー映画『小学校〜それは小さな社会〜』
それで思い出したのがドキュメンタリー映画『小学校〜それは小さな社会〜』です。そのダイジェスト版は第97回アカデミー賞短編ドキュメンタリー部門にノミネートされました。山崎エマ監督が世田谷区立塚戸小学校に1年間(約150日間)密着して撮った、日本の公立小学校の姿です。4月の入学式から始まる小学校の3学期にわたる春夏秋冬を静かにカメラが追っていきます。ちょうどCOVID-19の感染拡大と同時期にあたり、教育現場にも撮影にも大きな影響が出たことは想像に難くありませんが、映像のなかの学校生活は淡々と進んでいきます。そこに日常の強靭さというものを感じました。私には子どもがいないので、小学校生活といえば自分の体験を思い起こすしかないのですが、このドキュメンタリー映画に出てくる小学校生活は、教室内でタブレット端末を使っていることを除けば、半世紀ほども前にわたしが通った大阪の公立小学校でのそれとほとんど変わっていないように見えました。1989年生まれの山崎監督自身も、撮影対象としてこの小学校を選んだ理由の一つに6年間通った大阪の公立小学校に雰囲気が一番似ていたことをあげています。
フランス在住の日本人の友人が、帰国した時に大学生の息子さんとこの映画を見たそうです。息子さんの感想は「日本の小学校に行かなくてよかった」だったとか。母語の違う多国籍の子供たちが通うパリのインターナショナルスクールで育った彼にとって、「みんなで」「一緒に」「同じように」が多い日本の小学校は窮屈に見えるのかもしれません。教育の専門家でもあるその友人によると、日本の小学校は、学力をつけるだけでなく社会性を養う場であるという点において、世界でも特殊だそうです。この映画では全員で行う掃除や給食当番、放課後の部活動、修学旅行、地域と一体となった運動会など、日本の小学校の社会的機能に焦点をあてています。
公共意識や協調性を重んじるハビトゥス形成の場
フランスの社会学者のピエール・ブルデューが唱えたハビトゥスという概念があります。ハビトゥスは特定の階級や社会集団に適応するなかで育まれる生活習慣や価値観を指し、その集団の人々の行動や選択に深く影響を及ぼすものとされています。一般的にハビトゥスは家庭内で植え付けられる言葉遣い、所作、趣味趣向など、階級格差を再生産(固定化)するものとしてとらえられますが、この映画を見て、学校教育によって公共意識や協調性を重んじるハビトゥスが形成される場合もあるのではないかと感じました。イギリスと日本にルーツをもつ山崎監督は、日本の公立小学校に6年通ったあと、神戸のインターナショナルスクールに進みました。そこでは掃除の時間がなく、放課後に業者が入って掃除をしているのを見て衝撃を受けたそうです。実際、生徒自らが学校を掃除するというのは世界的に見てもかなり珍しいことです。多くの国では、清掃作業は専門の業者によって行われることが一般的です。日本でも学校清掃に対して様々な見解はあるものの、その一方で掃除という行為には精神修養、美意識につながるという共通認識もあります。海外でもベストセラーになった『人生がときめく片づけの魔法』やアカデミー賞外国語部門賞にノミネートされた『パーフェクト・デイズ』などに描かれる世界観は、そうした共通認識に根差しているともいえるのではないでしょうか。
映画のなかでは靴箱に入れた靴の揃え方を定規で図ってチェックしている場面もあります。さすがにこれはやりすぎではと思いましたが、茶道や書道でお稽古を通じて細かい所作や手順を身に付けていくこととどこか通じるところもあるようにも思いました。掃除は同調圧力や集団主義の象徴であるという人がいても、茶道や書道についてそんなことをいう人はいないでしょう。掃除という行為の本質は、汚いものをきれいにすることではなく、元あった状態に戻すこと、つまり復元です。誰のために復元するのか。それは「あとから使う人」のためです。「あとから使う人」はその場にはいない、不特定の見えない人たちです。小学校での掃除が他者への思いやりや責任感を育むとされるのは、こうした感覚を身体で覚えるからではないでしょうか。未来の自分も含めたここにはいない人たちのために場を整える。公共空間はその繰り返しによって維持されていきます。
高校卒業後、ニューヨークの大学に進んだ山崎監督は、電車が時間どおりこない、人とすれ違うときによけずにぶつかってくることにとまどいを感じた一方で、無意識にふるまっていても、責任感がある、献身的である、などと評価されることに驚いたそうです。大谷翔平選手がメジャーリーグの試合中にグラウンドのゴミを拾って賞賛されたのとも通じるところがあるかもしれません。人がよけずにぶつかってくるというのは、私もヨーロッパのスキー場で身をもって経験しました。フランスやイタリアのスキー場では技術レベルが高くない人でもすごいスピードを出してかっ飛ばしています。びくびくしながら滑っていたらガイドさんにこう言われました。「他の人のことを気にせず、コースのど真ん中を自分のペースで滑ってください。本当にやばいときは周りの人がよけます。下手な人がよけるにはスペースが必要なので、両端は空けて真ん中を滑るように」。その通りやってみたら、かなり恐怖感は減りました。ただこういう考え方は、集団としての生存率を下げることにもつながりかねないと思います。
子どもの主体性を重んじた教育で知られるフィンランドでの反響
日本の義務教育においても個を伸ばすという発想が出てくるのは1980年代以降のことです。画一的でない、一人ひとりの特性や能力に合わせた教育は理想的だと思いますが、そのことと集団生活のルールを身に付けることは本来は矛盾しないはずです。山崎監督のカメラは、新入生歓迎の演奏会で奏者に選ばれた女の子が他の人と音を合わせられず、担当の先生に叱責される様子、6年生の男子生徒が運動会の集団演技の縄跳びがうまくとべずに追いつめられる様子なども追っています。二人は最終的には周囲の励ましと自身の努力によって、自分でも納得できるパフォーマンスができるようになりました。そのときの晴れ晴れとした表情が印象的でした。無理せず楽しくできればいい、得意なことを伸ばしていけばいい、という発想だけではたどり着けなかった境地だと思います。この映画は、子どもの主体性を重んじた教育で知られるフィンランドでとりわけ大きな反響があったそうです。冒頭のエピソードに出てくる北欧の国はフィンランドではありませんが、生徒の個性を尊重した教育制度で知られています。この映画だけをもって、日本の初等教育は他国より優れているというつもりは全くありません。実際に日本には小中高で40万人を超えるといわれる不登校児がいるという現実もあります。生徒の多様化、価値観の多様化、教員数の減少などによって、教育現場が疲弊しているという問題もあります。不易流行。いつの時代も変わらない基本と、時代や状況に合わせた変化と、そのバランスをどうやってとっていくか、この映画は学校生活のディテールを教師と生徒双方の目線で丁寧に追い、フラットに描くことで、これからの時代の教育を考えていくための多くの手がかりを用意してくれています。
執筆者:中嶋 愛
編集者。ビジネス系出版社で雑誌、単行本、ウェブコンテンツの編集に携わったのち、ソーシャルイノベーションの専門誌、Stanford Social Innovation Reviewの日本版立ち上げに参画。「スタンフォード・ソーシャルイノベーション・レビュー 日本版」創刊編集長。スタンフォード大学修士修了。同志社大学客員教授。庭と建築巡りが好きです。
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