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「縄文の思考」~日本文化の源流を探る

更新日 : 2009年08月06日 (木)

第7章 現代の言葉に息づく、自然との共生体験の歴史

小林達雄 考古学者/國學院大學名誉教授

小林達雄: 文化的遺伝子というのは生理学的な遺伝子のDNAとは違って、言葉を通してつながってくるのです。自然の秩序が維持されている原における生活というものが、実は村の生活、縄文村の生活を維持するためには必要な伴侶、仲間の土地なんです。そういうところでも自然との共生というのは、その後の日本の大和言葉の中にたくさん残っています。

擬音語とか擬声語というのがあります。風の音や川の流れを欧米あるいは中国の漢語でもそうですが、「小さな川が静かに流れている」「水量は小さい」「波風立てないで流れている」と言う。大きな黄河や揚子江になると、「とうとうと流れている」と形容詞で言うのです。日本語の場合は「サラサラ」流れたり、「ザブザブ」流れたりする。これが擬音語ですが、風の渡る音も、みんな擬音語、大和言葉です。

縄文時代は1万5000年前ぐらいに幕を開けて、それからずっと紀元前1000年ぐらいまで続きます。その間、原で自然と共生してきたわけで、自然とのつき合い方の中で、自分たちの言葉を自然としゃべり合うのです。

例えばコオロギの鳴き方、キリギリスの鳴き方、スズムシの鳴き方、これらを全部、日本人は言葉で言い換えるのです。鳥だってそうです、セミだってそうでしょう。セミはただ「鳴いている」とは言わないんですよ、鳴いていると同時に「ああ、これはツクツクボウシだ」「これはカナカナゼミだ、ヒグラシだ」「これはクマゼミだ」と全部わかるのです。そんな文化は世界中、おそらくどこにもありません。

面白いことに、欧米の人に「今、コオロギが鳴いていますね?」と指で(鳴き声のする方を)示しても彼らには聞こえないんですよ。我々は「あっ、鳴いているね」「ああ、そうだね」と、そっちを向かなくても鳴いているのをキャッチできるんです。

つまり、耳も目もみんな文化なのです。例えば目が必要な狩猟民は、我々現代人の何倍も遠くが見えます。そういう研究はいっぱいあります。音もそうです。そういう世界に住んでいて、それが必要なところでは我々が聞こえない音をちゃんとキャッチできるのです。

我々がキャッチできるものは生理学的に限定されるだけではなく、文化的にも限定されるものなのです。日本人は文化的な訓練によって、セミの声も虫の声も全部キャッチできるのです。

先ほど「ツクツクボウシ」と言いましたけど、縄文時代にツクツクホウシと鳴いていたとは言っていないのです。仏教が入ってきてから、あのセミを「ツクツクホウシ」と聞くのです、聞きなしていたのです。この聞きなしは擬声語と言います。人間が話をしている言葉でセミは鳴くのです。「テッペンカケタカ」もそうなんです。カッコウは「テッペンカケタカ(天辺欠けたか)」と鳴くんですよ。

こういうふうに人間だけではなく自然も大和言葉で話をするというのは、縄文時代の1万3000年以上の間、ずっと自然と共生してきたことが文化的遺伝子としてあるわけです。

俳句が今、欧米をはじめあちこちで流行っていますが、俳句は日本にしかないのです。俳句というのは四季の移ろいをパッと取り入れて、五七五に読み込むんですね。欧米のように音素だけで五七五にしようというものは俳句精神とは全く違います。やはり縄文1万3000年以上の体験が自然との共生体験が俳句を生んでいるのです。だから真似をしたってだめなんです。

私たちは「俳句が普及している」なんて喜んではだめなんですよ。むしろ「それ、ちょっと違いますよ。あなた方はあなた方の方法でやりなさい」と言わないと。もちろん日本の文化や俳句について興味を持ってくれたり、評価をしてくれたりするのはありがたいことですが、真似をしてもらう必要はない。真似できるわけがないんです、文化的遺伝子が全然違うのですから。

『古今和歌集』などに掛け詞というのがありますよね。例えば「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に」と、私の容色は衰えていくじゃないかと悲しむ歌があります。この「眺め」と「長雨」の掛け詞なども全部そうですよ。こんなに巧みな掛け詞は世界中のどの言語にもないでしょう。全くないとは申しません。多少ありますが、日本はそれの花盛りというか、オンパレードです。

言葉尻をつかまえるというか、韻を踏んでダジャレを言えるのが日本語です。ほかの言語にもセンスのあるダジャレが一口話としてはありますが、一言でパッとダジャレで落ちをつくれるのは日本語、大和言葉です。縄文時代の1万年以上に亘る自然との共生のなかで、それが出てきたんですね。


該当講座

『縄文の思考』〜日本文化の源流を探る
小林達雄 (考古学者/國學院大學名誉教授)

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