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更新日 : 2014年09月29日 (月)

第4章 虚実皮膜(1)




そのことがなかったら小説は書かれなかった

 ある文学研究者は小説についてこう言っています。「小説は作り事。それを人は、なぜ読むのだろうか。小説読者は読んで楽しいことが第一だが、そこから一種の真実を感じとっているからだ。」(生島遼一『鴨涯日日』岩波書店)

 この言説は矛盾しています。なにせ「作り事」つまり虚構、あるいはフィクションから真実を感じる、と言うのですから。研究者はその矛盾をこう解き明かします。小説家は、日常性に埋没しがちな‘フツー’の人たちよりも数段と深く事実を明視する。彼らはそのようにして知り得た真実を素にことばの魔術を駆使して嘘の世界を創造する。真実は、そうすることによって‘フツー’の人たちにより強烈に訴えることができると信じて。それが近松門左衛門の作劇論の「虚実皮膜」(うそと本当は紙一重)と言うことなのでしょう。

 2012年7月、英ロンドンのロイヤル・コート・シアターで“Ten Billion”という芝居が1カ月間上演されました。出演者はたった一人で、しかも役者でなく人口問題の研究者です。彼は研究室にしつらえた舞台から「地球の人口が100億人になったら」と語り掛けます。それが非常に評判になり、『世界がもし100億人になったなら』(S・エモット/マガジンハウス)が書かれました。現在、世界の人口は70億人を突破しています。このところ1年間当たりの人口は減少する傾向にあるものの、それでも西暦2050年までには90億人を突破し、今世紀末までに世界の人口は100億人に達すると推定されています。

 世界的なミリオンセラー『ダ・ヴィンチ・コード』や『ロスト・シンボル』の著者がその問題をモチーフにして『インフェルノ〈上・下〉』(D・ブラウン/KADOKAWA)を書いています。物語は、生殖遺伝子に作用し、人口爆発を抑制することができるある種のヴィールスを開発した科学者の暴挙を阻止するため、ハーヴァード大学古典象徴学研究者が八面六臂の活躍をするサスペンスミステリーです。なぜこの象徴学者が登場するかは、その生化学者がヴィールスを自動的に拡散する装置を隠蔽した場所が、ダンテ『神曲』の「地獄篇」(「インフェルノ」はそのラテン名)に示されていることがわかったからです。ここではその中味に触れませんが、物語の舞台となるフィレンツェ、ヴェニス、イスタンブールの町並みや教会や美術館などの描写は微に入り克明で、なまじな‘るるぶ本’は引っ込んでしまいそうです。
 ところで『神曲』を読解するためには、その謎や暗号が象徴する事物事象を知らなければならないとされている古典ですが、角川書店は親切にも、『インフェルノ』の出版と同時に『謎と暗号で読み解くダンテ「神曲」』(村松真理子/角川oneテーマ21)も出しました。またそうした「謎と暗号」を隠している『教会の怪物たち—ロマネスクの図像学』(尾形希和子/講談社選書メチェ)には、ダンテが実際に目にしていたさまざまな表徴が取り上げられ、その寓意が解説されています。

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