記事・レポート

語る、つなぐ ~記憶のアンテナにふれるとき~

生と死の間(あわい)にあるもの/いとうせいこう×能楽師・安田登

更新日 : 2015年11月11日 (水)

第7章 過去・現在・未来が共存する能の世界


 
ただ、そこにいるという実感

いとうせいこう: 能の物語は、現実と夢幻の世界だけではく、過去と現在も混在しますよね。これはかなり哲学的なことです。

安田登: 民俗学者の折口信夫氏は、「人が死んだらどうなるか」という話題の中で、こう語っています。人が死ぬと、例えば、木に生まれ変わるなど、来世では別の生命になる。しかし、実はすでにそれは現世に存在し、あそこに見えている木がそれであると。

いとうせいこう: なるほど。面白いですね。

安田登: 前世も来世も、現世に存在しているということです。現代人の思考では、「あなたの前世はこうだった」と言われれば、何となくその感覚は理解できるはずです。しかし、「来世に生まれ変わるはずのものが、すでに現世に存在している」と言われると、なかなか理解できないでしょう。

いとうせいこう: 「だって、まだ死んでないのに……」という話ですよね。同じような話では、民俗学者の柳田國男氏も、「死者はまったく近くにいる」と語っています。特に太平洋戦争の頃、そのことをよく考えたそうです。たくさんの人が亡くなり、日本から遠く離れた場所で散った人もいる。しかし、その人々は常に我々のすぐそばに“いる”のだと。元々、日本人の死生観もこうしたものでしたよね。

安田登: そうです。能の物語では、現在を生きる人と過去に死んだ人が同じ時を共有している。言葉に縛られてしまうと、このような感覚も理解できなくなってしまいます。

いとうせいこう: 「時間とはリニアなもの、一直線上に流れるものである」という思考に縛られている。時間という言葉が作り出した観念・概念が、我々の思考を限定している。実は「いま」の中には、遠い過去も、ずっと先の未来もすでに入っている。生きている自分、死んだ自分、次に生まれる自分。そのすべてが僕とも言えますし、我々とも言える集合的な存在ということですね。

このセッションの紹介文に「死者について語る、死者とともに語る」とありましたが、まさにこの話がそうですね。文字だけを見れば、オカルトの世界の話に聞こえますが、実はそうではなく、それはただの「実感」なのだと。

僕も、亡くなった友人と一緒に何かを考えている時があります。例えば、小説などを書く際、「ここまでベタな表現を使ったら、アイツに笑われてしまうな」とか。その友人はすでにこの世にはいませんが、考えている時は友人が生きているのか、死んでいるのかなど、僕にとってはまったく関係ない。ただ、自分のそばにいる。その実感があるだけです。

安田登: 本当にそう思います。


該当講座


六本木アートカレッジ 語る、つなぐ ~記憶のアンテナにふれるとき~
六本木アートカレッジ 語る、つなぐ ~記憶のアンテナにふれるとき~

650年前から続く伝統芸能「能」は、死者と生きる者の話。能をフックに、私たちが忘れかけている、日本の文化、そして死生観について語ります。