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意識のない死の世界へ。すでにある無意識を顕在化せよ

アートの本質に、横尾忠則と生駒芳子が迫る!

更新日 : 2013年04月15日 (月)

第5章 死の世界から見る、生の世界

写真左:生駒芳子(ファッション・ジャーナリスト/アート・プロデューサー) 写真右:横尾忠則(美術家)
写真左:生駒芳子(ファッション・ジャーナリスト/アート・プロデューサー) 写真右:横尾忠則(美術家)

 
アートスペースで描く「良い生き方は良い死に方」

生駒芳子: 香川県の豊島にアートスペースをつくられているそうですが。

横尾忠則: 一昨年にやった<瀬戸内国際芸術祭※1>の関連プロジェクトです。建築家の永山祐子※2さんが僕の美術館をつくってくれているのですが、廃虚のような日本家屋を改装しています。その古い建物の内部を少し変えて、見た目はほとんど民家のままです。僕はガーデンとタワーを担当していまして、男性原理と女性原理が合体したようなイメージを具現化したタワーになる予定です。

生駒芳子: 「良い生き方は良い死に方」というテーマで絵画も展示されるそうですね?

横尾忠則: そのテーマは、ベネッセ会長の福武(總一郎)さんの思想です。僕は作品を通して、よく死や生を表現していますけれど、福武さんとお話をしてみると考え方がほとんど一緒なのです。
スイスにアルノルト・ベックリンというアーティストがいるのをご存じですか? 彼は『死の島※3』という作品を描いています。僕はその作品がとても好きで、その考え方を引用してつくろうと思っています。

僕の中にも死はすみついている

生駒芳子: どんな作品になるか楽しみですね。横尾先生の頭の中には、すでにあるのですか?

横尾忠則: 頭の中では、もう全部できていますよ。とはいっても、考えがあってできたものではなくて、自然とそういうものがそういう場所に配置されていくのです。さきほどお話しした、シンクロニシティーによるものです。その創造で何がしたいかではなく、何がしたいかがそこで出来上がっていくわけですね。

生駒芳子: 死の世界と生の世界は、裏表の関係であったり、いろいろな捉え方があると思います。どのように捉えているのでしょうか?

横尾忠則: 生きている側から死の世界を見るのではなく、死の世界から現実(生きている側)を眺めているのです。自分を死者と仮定するわけですね。実体をもたない死者が、物質的・現象的な世界を見ること。これは僕の作品の核になっています。僕自身は確かに肉体的存在です。でも、それだけではなくて、僕の中にも死はすみついています。

生駒芳子: 遠くにあるのではなくて、ご自身の中にあるのですか?

横尾忠則: 死者は僕自身でもあるわけです。生とは物質界のものですから、触ったり見たり聞いたりと、五感を通して認識することができます。でも、死の世界は認識できない。魂の問題になってくるのです。霊性の世界とこちらの世界が、僕の中ではもうすでに融合できているわけですよ。

言葉や思考が消え去った、創造の時間

生駒芳子: 横尾先生にとり絵を描く行為とは、死の側に立つことなのですね。絵を描いている間とは、一体どういう時間なのでしょうか?

横尾忠則: 絵を描く時間は、現実の時間ではないですね。もちろん作業しているのは現実の時間の中ですが、そこを超えていくことだと思います。現実の時間をこじ開けて、その先にある時間に入っていくというのかな。その向こう側の時間の中で作業している感覚です。

たとえ、現実には1時間しか経っていなくとも、とんでもなく長い時間描き続けていたように思うこともありますね。(現実の時間を)こじ開け損なったときは、その逆の感覚にも陥ります。向こう側の広大な時間の中に、いかに溶け込んでいくか。それは創造の瞬間にしかできないのです。

生駒芳子: それは気持ちのいい時間なのでしょうか?

横尾忠則: 肉体的な快感があるわけではありません。でも、本当にすごい時間。自分という意識を消した世界に入っていくわけですよね。そこには何もないのです。ものを考えることさえ、できない世界。だから、自分の考えに引きずられてつくるものというのは、まだこちら側の世界の創造です。向こう側に入っていくとき、頭の中の言葉は邪魔でしかない。その言葉や考えを消し去っていくのが、僕にとっての創造の時間です。

※1 編注:瀬戸内海の島々を舞台に開催する現代アートの祭典。2010年に第一回を開催し大きな反響を呼んだ。2013年にも開催予定。
※2 編注:永山祐子建築設計主宰。ルイ・ヴィトン 京都大丸店の設計などを手がけ、これまでに数々の賞を受賞している若手建築家。
※3 編注:アルノルト・ベックリンの代表作の絵画。1880年の作品。

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