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コンセプト・センスを持って生きる<イベントレポート>

更新日 : 2024年04月23日 (火)

【前編】ものごとの捉え方の“補助線”としてコンセプトがある



コンセプト・センス 正解のない時代の答えのつくりかた』を上梓した電通のコンセプト・デザイナー吉田将英さんと、テクノロジーと人間のより良い関係を研究する情報学者のドミニク・チェンさんをお迎えして開催したトークイベント。情報過多で変化のスピードが速く、課題が複雑化する社会で、どのようにして課題に向き合い、決断し、社会を良い方向に変えていくか、そこにあるべき「コンセプトとは、何か」をテーマに対談をいただきました。

開催日:2024年2月13日
登壇者:吉田将英 (コンセプトデザイナー / 電通若者研究部メンバー)
ドミニク・チェン
 (早稲田大学 文学学術院 教授)
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吉田:今日は「コンセプトとは何か」についてお話をしていきますが、たった一つのものすごい結論に至るために話すというわけではなく、ゆるやかな、いい脱線をお楽しみいただけたらと思います。今回は僕のほうからドミニク・チェンさんとぜひお話したい、とお願いをいたしました。

ドミニク:ありがとうございます。よろしくお願いします。

吉田:そして、グラフィックレコーディングを中尾仁士さんにお願いしています。我々が話している内容をこの場でグラフィックにしてくれるという凄腕で、ともすると「グラレコがすごかった!」という感想が多くなることがままあるのですが(笑)、仕上がりを楽しみにしていただきたいと思います。

まず、簡単に僕の自己紹介をします。電通という会社で、クライアント企業がどういう方向にいくことが良いのだろうかという、道標をつくることのお手伝いをメインにしています。また、長年若者研究として、大学生と共創プロジェクトを手がけています。そこで感じた、若い世代が抱く社会への違和感などが、『コンセプト・センス』を書く動機になっています。
では、ドミニクさんにも自己紹介をお願いします。活動をご紹介いただくと、なぜコンセプトのテーマで、この二人なのか、というお話が伝わりやすくなると思っています。
マイコンセプトは「テクノロジーを使った、新しい表現とコミュニケーション」
ドミニク:私は早稲田大学の教員をやっています。教員には教える仕事と、研究する仕事がありますが、一方的に学生に教えるということではなく、私が知らないことを若い方から教えていただきながら、こんなものが役に立つよ、と研究的思考の道具を提供する人として存在したいと思っています。その意味で、吉田さんの若者研究に関するお話は自分にも共通するなと思います。

今日は「コンセプト」がお題目なので、自分のコンセプトはなんだろうと考えてきました。私はアメリカの大学でデザインの勉強をし、東京・初台オペラシティにある「NTTインターコミュニケーション・センター 」で、コンピューターを使ったアーティストの表現をキュレーションやサポートをする仕事を始めました。その傍ら「表現」とはなんだろうというところに、ずっと興味があります。私が学生時代、インターネットで高速通信ができるようになり、著作権問題が巻き起こっていました。アーティストの楽曲やファイルの違法なアップロード、ダウンロードは法的に罰すべきことです。でも、それと同時に、それまではコストがかかっていた個人の表現を伝えることを、空間や時間を超えて瞬時にできるようになっていて、その可能性を伸ばすことはできないだろうか、と思いました。
原則として、作品を作ると、何もせずとも自動的に著作権が全保護されると法律で決まっています。でも、それを望まないクリエイターもいます。今であれば、インスタグラムやTikTokで、他の人の楽曲をリミックスして動画を作ったり、楽しむというのはよくあることになっていますが、当時はそれをやると罰せられました。アメリカで大学生3000人が一斉検挙されたようなことがあったんです。今だと信じられないですよね。そこで、学生時代に「クリエイティブコモンズ・ジャパン」という国際NPOの日本支部を仲間と立ち上げました。クリエイティブコモンズというのは、直訳すると「創造の共有地」。クリエイターが自分自身で、この作品はこういう風に使っていいよ、という意思表示をする仕組みです。

まとめると、自分の半生を表すひとつのコンセプトが「インターネット上でできる新しい表現」であると思っています。
そこからインターネットを用いたコミュニケーション全般の研究をはじめたり、自分でITのスタートアップの経営をして、コミュニケーションのアプリやサービスの開発をしてきました。最近では、人同士のコミュニケーションに飽き足らず、“ぬか床”の微生物とコミュニケーションしたいという欲求が芽生えてしまって(笑)、微生物と人間をつなぐ「通訳」としてデザインされたNukabot(ヌカボット)というぬか床サイボーグを作ったりしています。



最初は個人的な「妄想」でやっていましたが、今は科学研究予算をいただいて、テクノロジーを使ったコミュニケーションという研究テーマになっています。詳しくは後半でお話ししますね。このようなことから、インターネットのみならず、テクノロジー全般を使った「新しい表現とコミュニケーション」というのが、私が自分ごととして執着して考えてきたコンセプトかなと思っています
すべての関係性がつながっているので、簡単に分割できないということに気づく
吉田:僕は経営者の伴走をよくやっているとお伝えしましたが、そこで提示される「課題」はいつも、単純にどこかが悪くてそれを取り除けば解決する、というシンプルなものではありません。
例えば、新車販売のディーラーさんとのお仕事では、売り上げがあがらない店舗の課題解決のために、まずそれぞれの店舗で僕が働いてみるというフィールドワークをしたことがあります。そのなかで、これは「関係性」に課題があるんだとわかりました。具体的に説明すると、「販売」と「メンテナンス」という職種があって、販売の業績評価は<新車販売台数>、メンテナンスの業績効果指標は<メンテナンスや車検を受けた数>。それぞれに合理性があるのですが、ちょっと考えればそこには矛盾がありますよね。販売スタッフは「もう結構乗ったので新車を!」と買い替えを促します。メンテナンススタッフは「まだまだ乗れます。メンテナンスしましょう!」と提案します。お客様は「どっちなんだ?」と混乱します。この例のように、局所の合理性の積み上げが全体としては矛盾状態になることがすごく多い。悪者を特定してなんとかする、という問題解決の考え方から切り替えないと解けません。それは、「関係性のデザイン」が大事なんだというコンセプトになるわけです。そのようなことを、僕はここ数年やってきて、ドミニクさんのご著書『ウェルビーイングのつくりかた 「わたし」と「わたしたち」をつなぐデザインガイド​​』が、まさにその関係性について語られているなと、勝手にシンパシーを感じて、今回お話ししたいと思いました。

ドミニク:考えてみると、研究者にとってコンセプトは、ボールペンのようなものであるように感じます。つまり、新しい知識やモノを作り出すために必要な、普段から使っている日常的で有益な道具。だから改めて「コンセプトって何?」と理路整然と説明することは容易ではありません。
また「関係性」という言葉自体も、哲学的に「主体とは、個人とは、なんなんだ?」という問いが脈々と続いてきたことを想起させます。私はここ数年、ウェルビーイングとテクノロジーの関係というテーマについて考えています。ウェルビーイングとは、心が充足する因子を考えることを意味します。でも、一人ひとり個人のより良い状態を最適化しましょう、ということだけやっていると、さきほど吉田さんの例にあった「車のディーラー状態」になります。一人のウェルビーイングを最適化すると、その隣のウェルビーイングが下がるかもしれない。それならば住み分けて最適化すればいい、というのが従来のデザインです。経営、政治、行動経済学もそう考えがちでした。でも、さっき吉田さんがフィールドワークをされたように、近づいてしっかり見てみると、すべての関係性がつながっているので、個々人を簡単に分割できないということに気づきます。でも、これまでは、それはそれとして現実を保留し、問題解決をしようとしてきたのだと思います。それが立ち行かなくなっているという事態がウェルビーイングという一つの分野をとってみても、ここ20〜30年で出てきています。

これまでに、「わたし」から「わたしたちへ」というコンセプトで2冊本を書いてきていますが、これは個人の存在を否定しているわけではありません。「わたし」なき「わたしたち」という状態は、同調圧力が強く、出過ぎたことをすると打たれてしまう全体主義的な世界につながってしまいますし、逆に「わたしたち」なき「わたし」というのも他者との関係性が希薄な、非常に空虚なものだと思います。ただ、世の中を見渡してみるとマーケティング、コピーライティング、商品の作りでも、いい意味で「わたし」を充足するということが発達しています。一方「わたしたち」を語る言葉は、商品の世界でも、ビジネスの世界でも十分なボキャブラリーが作れていない、と感じます。それは、「わたしたち」はそもそもあいまいな区分だからです。吉田さんと私、という二人の「わたしたち」、この会場全体を指した「わたしたち」など、レイヤーが無数に存在していて、そのリアリティをわかりやすく言葉にするのは難しく、技術的に発達していません。「わたしたち」と言う言葉にさまざまな関係性が含まれている、ということですね。そこを考えていかないと、本質に至れないという提案、提言でもあります。

吉田:ドミニクさんのご著書は、すごく難しいところに一石を投じる本だなと僕は感じています。経営者が、その「わたしたち」的世界観をちょっとでも持っている会社はいい会社だなと思います。何か一つのパラメーターを上げるだけ上げていく、というのは世間では許されなくなっています。だからこそコンセプトは思想として、経営のはしごの一段目になると思います。
ものごとの捉え方の“補助線”としてコンセプトがあることで、その先の風景を見ようという気持ちになる
吉田:抽象度の高い話が続いてきましたので、「なぜ、今コンセプトなのか」というテーマに即して、僕がコンセプトが効いていると考える具体的な例を少しご紹介します。
例えば、「AKB48」が打ち出した「会いに行けるアイドル」。これは「会えないからこそ価値がある」とされてきたアイドルとファンの関係性を転倒し、アイドルに対しての人々の認知をリセットし時代を席巻したコンセプトだと思います。
▲具体例を描いたグラレコ
他にも、初代iPodの発表の際にスティーブ・ジョブズが語った「1000曲をポケットに」というコンセプト。大容量ということを具体的な数字で打ち出し、コンセプトがそのまま広告コピーになっています。さらに、今や当たり前の「パーソナルコンピューター(パソコン)」は、もともと大型で高価な専門的なコンピューターを一般の人々へと拡げる、社会通念を転換するようなスーパーコンセプトだったということは言うまでもありません。

ドミニク:僕たちは「デザイン・コンセプト」と言う言葉を研究ではよく使います。ものを作るときの道具(先に話したペンや定規みたいなもの)として、ある問題を考える上で、それを使って線を引いて進んでいけば核心に近づいていける、考えを深めていける“思考の定規”のような、かなり道具的なコンセプトのイメージです。

吉田:僕の本でも触れていますが、ものごとの認知・捉え方の“補助線”としてコンセプトがあることで、その先の風景をみようという気持ちになります。コンセプトは「道具」というドミニクさんのメタファーは、すごく腑に落ちます。つまり「コンセプト」は最終生成物ではなく、スタートラインである、と。それも、ゴールに向かって何かを狭めていくのではなく、この幅で考えてみたら、今までより面白いものが視野に入るかもよ、ということで掲げるものだと思っています。
自分の思い込みの想像の枠の外に、違うものの見方があることに気づく
ドミニク:吉田さんの『コンセプト・センス』は、一見企画職のためのような装いの本ですが、コミュニケーションのための建設的な議論も含め、自分とは異質の他者に自分の考えをどう伝えるかという武器、道具としてのコンセプトの作り方を丁寧に解説されている、というスタンスだと思います。

僕はフランスの学校で育ってきましたが、僕の時代は、高3になると哲学の授業が必修になりました。物事は理性、合理性、言葉によって成り立っている、という考えがフランス共和国としてのスーパーコンセプトだからです。理系文系問わず哲学を叩き込まれ、「コンセプト思考」を身に付けさせられます。
フランスの酒場や友達の家などで、雑談から政治的な話がはじまると、議論を楽しむために、あえて自分が信じていない立場に加勢して、その役割を演じるなんていう文化があります。そこには、どんなに優れた考えも、言葉として形作ることができなければ存在しないという考え方が規定にあるように思います。言葉を操れるようになるとコミュニティに入れて、言葉を操れる奴だから話を聞こうという、ある種の残酷さと平等性が、日本とは違うかたちで存在しているのを感じます。意見の異なる人に対して、感情的に「それは違う!」といった泥試合にならずに、ひとまず「聞く」、そして「でも」と反論をすると“会話”になりますよね。

吉田:ディベートについては、初めて小学校でやった時に、「なんで自分が思っていないほうで話さなければならないんだ、僕はこんなこと思っていないです!」みたいな反論をしたのを明確に覚えています(笑)。でも本当は、「わたし」ではない別の立場の人がいることにいかに思いを馳せるか、他者を想像したり、置き換えたりできるか、を問われている。本人の想定の枠の外に、どんな視点だったり着想だったりがあるのかを想像し、それこそ実際にフィールドに行ってみたり、インタビューをしてみたりすることが、「わたし」と「わたしたち」を隔てる大きな違いかなと思います。

僕の本では、コンセプトのBIV-Cモデルというものを提唱しています。
Bはバイアス。社会の約束としてそういうものだ、と捉えている思い込み
Iはインサイト。本人が気づいていない本当の欲求
Vはビジョン。社会がこうあれたらいいよね、という理想の未来、関係性。
Cはコンセプトです。

これを先にあげたアイドルグループのコンセプトに置き換えてみると、
B(バイアス) アイドルはなかなか会えない、遠い存在だからこそ、憧れるという通念。
I(インサイト)ファンは本当は近い距離で会いたい、応援したいという深層心理。
V(ビジョン)等身大のアイドルを応援することで皆が前向きになれる社会の実現。
= C(コンセプト) 「会いに行けるアイドル」

▲BIV-Cモデルを描いたグラレコ
BIV-Cモデルを図にしてみると、コンセプトはインサイトを起点にしたときのバイアスとビジョンの「角度」である、といえます。このまま行くとこっちの未来になるけれど、ちょっと角度をつけてみる。すると、そうじゃない未来、このままではない別の可能性が見えるかも、というふうに当てはめて、この構造になっています。実際には、この「バイアス」に気づくことがものすごく難しいです。でも、先のフランスの居酒屋でのお話や、ディベートのように、あえて立場を入れ替えてみることで、自分の思い込みの想像の枠の外に、違うものの見方があるのか、ということに気づくことができます。

▲中尾さんが描いたグラレコ(クリックすると拡大表示されます)

関連書籍

コンセプト・センス 正解のない時代の答えのつくりかた

吉田将英
WAVE出版

ウェルビーイングのつくりかた

渡邊淳司,ドミニク・チェン
ビー・エヌ・エヌ


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