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小さな一歩が世界を変える!

「医療」「教育」で世界を変えるニッポン人

更新日 : 2016年06月13日 (月)

第2章 目の前の患者にすべてのエネルギーを注ぐ

吉岡秀人(小児外科医 / 特定非営利活動法人 ジャパンハート代表)

 
引き返すのか、前に進むのか

吉岡秀人: 1995年、ミャンマーで最初に訪れた町は人口32万人。それに対し、病院はたった2つ。そのうちの1つは床が赤土で、壁は竹細工でした。さらに、現地の医者はたった1人。医療というものがほとんど存在していませんでした。

僕が拠点とした病院には、ミャンマー中から患者がやって来ました。無料で医者に診てもらえるという話を聞きつけ、多くの人が借金をしてまで旅費をつくり、遠く離れた村から数日かけてやって来ました。僕は早朝から深夜まで、来る日も来る日も患者を診ました。一生懸命、診ました。しかし、通訳と事務のスタッフはいても、医者は僕ひとり。とても追いつきません。

そのうち、ある病気を持った子ども達が「手術をしてくれ」とやって来るようになりました。頭蓋骨に穴が開いているため、そこから脳が飛び出してしまう脳瘤(のうりゅう)という病気です。こうした子ども達は、日本でもミャンマーでも数千人に1人の割合で生まれています。

あるいは、大やけどを負った子ども達。ミャンマーでは日中働く親に代わり、子どもが乳幼児の面倒を見るため、やけどになる子どもが非常に多いのです。あるいは、口唇口蓋裂という病気。日本でも数百人に1人の割合で生まれます。口唇裂はくちびるが割れた状態、口蓋裂は口の中の天井部分と鼻腔がつながっている状態です。やけどや口唇口蓋裂は、命に別状はないものの、手術をしない限りこのまま生きていかなくてはなりません。

借金まで抱えてやって来た親子に対し、当時の僕ができたのは診察と簡単な治療だけ。「ここでは手術はできない。申し訳ない」。そう言いながら返していました。それでも誰も僕を責めません。誰がどう見ても、手術する道具や場所がなかったからです。
ある時、以前から薄々感じていたことをスタッフにたずねました。「あの子達は生きている間に治療を受けられるのか?」。スタッフ全員が言いました。「それは無理です。彼らはずっと貧乏だから治療は受けられない。それに、この国にはあの子達の手術ができる医者もいない。おそらく、一生あのままだろう」。

医療を受けられない人のために医者になろうと決意し、30歳にして僕が出会いたかった人達の前までたどり着いた。ようやく、ようやくここまで来たのに、目の前には大きな壁、抱えきれないような現実が立ちはだかっていました。

その時、僕は神さまにこう問われているように思いました。「よくここまで来たな。さて、お前はここからどうする? 引き返すのか、前に進むのか?」。ここが人生のターニングポイントとなりました。僕は医者になった頃から「医療は一期一会だ」という思いを大切にし、毎回、目の前にいる患者にできる限りのエネルギーを注いできました。

「できない」と思っているうちは、アイディアなど1つも浮かびません。そうした時、頭の中ではあらゆる知識を総動員し、「できない理由」ばかり探しているからです。ところが、「やろう!」と決めた瞬間から、頭の中では突破するためのアイディアだけを考え始めます。

僕は診察を行うかたわら、部屋をタイル張りに改造し、壁に大きな窓をつけた手術室を作りました。1日に2時間しか電気が通らず、停電も多いため、光をたくさん取り込むための工夫です。日が落ちた後は、懐中電灯の出番です。ベッドは現地の大工さんに作らせた木製のもの。手術道具や薬は、安い海外製のものを1つひとつ買い集め、準備を進めました。

決心してから半年後、僕は手術を始めていました。ミャンマーに来て1年後、1996年のことです。現在はミャンマーだけで年間1,000件の手術を行っており、累計すれば数万人になるはずです。あの時、一歩を踏み出していなければ、この数はゼロだったと思います。


該当講座


小さな一歩が世界を変える! 
~「医療」×「教育」で世界に挑戦する日本人イノベーター~
小さな一歩が世界を変える! ~「医療」×「教育」で世界に挑戦する日本人イノベーター~

吉岡秀人(小児外科医・ジャパンハート)×三輪開人(e-eduication)米倉誠一郎(日本元気塾塾長)
社会的変革で途上国を変えようとする日本人イノベーターがテーマ。吉岡氏と三輪氏はミャンマーで出会い「医療」×「教育」で新しいイノベーションを引き起こそうとしています。“入院中の子供たちに映像による教育を提供する”ことにより子供たちに将来、未来、夢をもたらすことです。今までの各々の活動、そして新しい出会いがもたらした新たな取組みの可能性、社会的インパクトについて多面的に考えます。