記事・レポート

都市は思考する
~スポーツがひらく都市の可能性~

更新日 : 2018年05月14日 (月)

前編 為末大×藤村龍至 スポーツがひらく都市の可能性

現代都市を駆動させている「思考」とは? いま都市そのものを動かしているシステムや潮流があるならば、私たちはこれをどう活かしていけるのか。その可能性を、建築家の藤村龍至氏とゲストが語るシリーズセミナーが「都市は思考する」です。今回は元プロ陸上選手の為末大氏を迎え、2020年のオリンピック・パラリンピックを控えた東京で、スポーツと都市が互いにどう関わっていけるかを意見交換しました。ここではそのダイジェストをお届けします。

開催日時:2018年2月7日(水)19:00~20:30
スピーカー:為末大(元プロ陸上選手)
モデレーター:藤村龍至(建築家)

気づきポイント

●一流アスリートと環境の相互作用から、「都市の身体化」のビジョンが見えてくる。
●パラリンピアンが教えてくれる「助ける/助けられる」のより柔軟な関係性。
●スポーツは言語や文化を超えて、社会の多様性・共生の理解に貢献し得る。
●スタジアム、公園、学校——都市のスポーツ環境の未来は、地域共有がカギ。
●高齢化社会には、画一的な「年相応」の囲い込みを超えた共存の仕組みを。



スポーツを都市空間へ解き放つ

藤村: ご存知のように、いま東京では2020年のオリンピック・パラリンピックに向けた準備が進んでいます。東京はこれからどういう街を作っていけばよいのか。翻って、このオリンピック・パラリンピックがテーマとすべきこと、本当にやるべきこととは何か。さらに、オリンピック・パラリンピックのインパクトを東京はどう引き取れるのか。今回は、為末さんとこうしたお話ができたらと思います。

私が為末さんに関心を持ったきっかけは、2007年の「東京ストリート陸上」を丸の内の仲通りで開催されたことです。普段スタジアム内で行われる陸上競技を都市に開くという考え方に、私も共感をおぼえました。これをやろうと思った動機は?
「東京ストリート陸上」。2007年5月、路上に突如50mの陸上トラックが出現。日本のトップ陸上選手たちが通行人のすぐ横を走り抜けた。

為末: 発端は「どうしたら陸上競技場に来る人を増やせるのか」という話でした。スーパーでよくウィンナーを試食させてくれますよね。お客さんがそれを食べてみた上で買わなければ仕方ないですが、一度も食べていないのなら、その1回目をどうすればよいのか。ならば人が大勢いるところで走ろう、とやってみた感じです。

藤村: 1964年の東京五輪は、高度成長期を通じて近代化に進む日本の国力を示す、そんな意味合いもあったと思います。対して今回、為末さんは「相対的にパラリンピックの比重が高まるのでは」と言っていますね。もしそうなら、パラリンピックの思想を東京はどう受け止めるのか。またその視点から、東京という都市をアップデートするコンセプトも見えてくるのではないかと。今日はそのあたりまでぜひ議論できればと思います。

為末: 藤村さんは何を話しても拾ってくれるので、私はこんな話から始めたいと思います。スポーツ選手の多くが興味を持つ領域がいくつかあります。自分の体を知るうえでの生理学やバイオメカニクス、そして組織論や心理学。加えて、スポーツをやりながら世界の関係性を理解したいと思うようになるタイプがいて、私はこれに近い人間でした。

私が初めてオリンピックに参加した2000年のシドニー大会で、キャシー・フリーマンという400m走選手がいました。開催国オーストラリアの先住民、アボリジニの血を引く方です。決勝ではスタジアムが静まり返り、フリーマンたちが走り出した瞬間に大歓声に変わりました。彼女はラストの直線でトップを抜いて優勝します。

そこでガッツポーズかと思いきや、フリーマンは呆然と天を見上げて立ち尽くしたのです。その後、我に返ったようにウィニングランをし、これを最後に引退しました。いま思うのは、あのとき、フリーマンが走っていたのか、それとも「走らされていた」のかということです。スポーツの世界では、観客の有無でパフォーマンスが変わることが知られています。逆に、フリーマンが走ることで人々に影響を与えもしたでしょう。

「環境なのか、自分なのか」。この境目は実は曖昧です。ですから賢い選手の多くは「自分は環境に影響される」というモデルから考えます。わかりやすくたとえると、ダイエットを決意したら、美味しいラーメン屋などからは遠い場所に住む。自分は意思決定を保てるという考えを捨てることで、結果的に意思を貫けるというわけです。ですから私が抱く人間のモデルは、「自分」が常に環境に影響を受け、環境にも影響を与えるというものです。

ところで、パラリンピアンたちは、こういう義足(弓鳴りの形)に慣れると、そのかたちに沿って足もとのモノを避けるようになります。新たな足のかたちが頭のなかのボディマップに反映され、義足が人体化される感覚でしょうか。同様に、自分がいる都市を眺め、こんな街にしたいと都市に影響を与えることまでを「身体化する」。こうした感覚は、テクノロジーの介在による部分も含め、今後強くなっていくのではないかと思っています。

こうした考え方のうえで、では2020年の東京オリンピック・パラリンピックはどうあるべきか。まず、今回は東京という都市にとっての「テスト」と考えることができると思います。たとえばパラリンピックでは、世界中から視覚障害や四肢障害など、実にいろいろな方がやってきます。都市の各所で「ここは車椅子だと難しい」「でも義足だといけそうだね」といった場面が見られると思うのです。

その対策には、3つのレイヤーがあると思います。まず都市の形で対応する。スロープなどのバリアフリー対策ですね。次に、モノで対応するやり方。もし階段も登れる車椅子が普及したら、段差は問題にならなくなるでしょう。さらに、困っている人がいたら、周りの人で助けていくこと。パラリンピックは、状況によってこれらを使いわける術を見つける、とても良い機会かと思います。

また、こうした話ではつい「助けられる側/助ける側」が明確に分かれた前提で話しがちですが、パラリンピックの選手から聞いた私の好きな話に、車椅子の選手と全盲の選手がふたり一緒に出かけていき、互いを助けるというエピソードもあります。また、英語が話せるパラリンピアンは、話せない健常者を助けることもあるでしょう。そうした視点もパラダイムシフトが起きたらと思っています。

次に、2020年の後、東京はどんな都市になっていくと良いのか。観戦型のスポーツとは別に、自ら行うスポーツについて、我々は健康に良いですよとウォーキングやジョギングを推奨してきました。でも私が見てきたなかで、これまで最も人々を都市のなかで動かしたのは、実はスマホゲームの「Pokémon GO」です(笑)。ただ、つい体を動かしてしまう、心が浮き立つ精神浮揚効果というのか、ある意味「幸福」な状態を生み出す。これはスポーツが果たせる大きな役割かと思います。そのとき、自然に歩きたくなる、楽しくなる都市をデザインするのもあり得るでしょう。2020年は、そういうことを考えるきっかけにもなればよいなと考えます。

パラリンピアンがオリンピアンに勝つ瞬間


Xiborgの義足

藤村: ありがとうございます。人間が環境に大きく影響を受けるということでは、ローレンス・レッシグの「アーキテクチャ型権力」という言葉もあり、たとえばファーストフード店の椅子が硬い、空調がきついなどの状況があると客は長居しない。ここで、軍隊で命令されて食事を20分で済ませるのと、なんとなく居心地が悪いから20分で食べ終わるのは、権力論的には等価だ、といった東浩紀さんや大澤真幸さんの議論も思い出します。

為末さんはどちらかと言えばその後者、環境に人が動かされるような現代性が、テクノロジーも介してどんどん都市に溢れてくるのでは、と考えていらっしゃる。ただしそれは、パラリンピアンを見ていると、また別の能動性を引き出すこともできるということですよね。為末さんは、アスリート用義足を作る「Xiborg」の活動もしています。パラリンピックと関わり始めたのは、どのような動機からだったのでしょう。

為末: 自分が400mハードルを選んだのもそうですが、ど真ん中よりはマイナーな領域に行くクセがあって(笑)。でもそれとは別に、パラリンピックを通じて、人間のことを理解できそうな気がしたのです。たとえば大きな手術後に身体を動かせるよう行うプロセスなどを聞くなかでも、人間の不思議に出会う局面が多くあります。また選手たちに話を聞くと、体が動かせた瞬間に、根底から来る自信の回復があったという人は多い。パラリンピックが障害を持つ人々にもたらす1番の影響は、そうした力ではないかなと。

Xiborgの活動は選手たちのパフォーマンス向上を願って取り組んでいますが、やはり1番見たいのはパラリンピアンがオリンピアンに勝つ瞬間です。そこで「障害があるのにすごいね」と言いたいわけではなく、これも世の中が「あれ? いままでの認識でよかったのだっけ」と考えるきっかけになればと思うのです。そして、そこから健常者に対して、パラリンピックがなぜ存在するのかをうまく説明できそうな気がしています。「応援してあげよう」ということ以上に、健常者にグッドインパクトを与えられる可能性ですね。

藤村: スポーツを通じた、学びや気づきにも為末さんが関心を持っていることがよくわかるお話でした。為末さんはバリアフリーのスポーツ施設「新豊洲Brilliaランニングスタジアム」の館長でもあります。やはり、スポーツを通した学びへの関心は強いのですか。
新豊洲Brilliaランニングスタジアム「かけっこクラス」の開催風景

為末: 私個人の興味はスポーツを通じて人間を理解することですが、一方で、スポーツを使って(社会に)何ができるかにも関心があります。そしてスポーツは、非言語的で、いろいろなものを上手に馴染ませる効果が強いと思うのです。ランニングスタジアムにはいろいろな障害を持った方も来ますが、彼らと一緒に子どもたちが練習する「かけっこクラス」があります。子どもたちは自己流の手話で話をしたり、義足を持って遊び始めたりするんですね。

それを見た瞬間、「偏見とは慣れの問題である」という確信が得られました。特に教えることでもなく、慣れることで偏見はなくなるのではないか。ですから、これまでの世界で当たり前ではなかった何かが、当たり前になる風景を作ることに強い興味があります。

該当講座


都市は思考する
~スポーツがしみだす都市の可能性~
都市は思考する ~スポーツがしみだす都市の可能性~

都市は思考する〜スポーツがしみだす都市の可能性~〜
為末大(元プロ陸上選手) × 藤村龍至(建築家)
まちにスポーツが溢れ出ることで、“観る”と“プレー”の境目を消していくことを提言される為末大さん。多様な人達に使われる都市デザインのあり方とはなんなのか。都市の可能性に迫ります!


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