記事・レポート
観る概念が変容するこれからの芸術
宮本亞門(演出家)×片岡真実(森美術館館長)
Creative for the future - クリエイティブで切り拓く未来への架け橋 vol.2
更新日 : 2021年02月16日
(火)
前編 「リアルに触れる」ことを今一度考える時代
ミュージカルから歌舞伎まで、ジャンルを超えた舞台演出を手がけてきた宮本亞門氏。一方、森美術館館長としてグローバルな視点からアートとは何かを見つめ続けてきた片岡真実氏。両氏の対談では、フィジカルな関係からデジタルな関係へと「観る」ことの意味が大きく変わってしまった今、これからの芸術の在り方、アートとパフォーマンスが生まれる「場」の未来について、そしてその先にある多様な可能性について、様々な視点が語られました。
宮本亞門(演出家)
片岡真実(森美術館館長)
開催日:2020/10/24(日)15:30~17:00
CONFERENCE BRIDGE 2020「Creative for the future ~クリエイティブで切り拓く未来への架け橋」
主催: DESIGNART TOKYO 実行委員会、アカデミーヒルズ
助成:在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ日本
写真:田山達之 / 文:新八角
宮本亞門(演出家)
片岡真実(森美術館館長)
開催日:2020/10/24(日)15:30~17:00
CONFERENCE BRIDGE 2020「Creative for the future ~クリエイティブで切り拓く未来への架け橋」
主催: DESIGNART TOKYO 実行委員会、アカデミーヒルズ
助成:在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ日本
写真:田山達之 / 文:新八角
舞台を演出する意義と世界に繋がる可能性
宮本: 私は舞台の演出家を生業にしてますが、今、「演出家・宮本亞門」という名前を、このコロナ禍を経験して、ますます無くしたいと考えています。というのは、時代が変化する中で自分が何に一番興味を持って、無心になって集中できるかということが、どんどん変わって来ているからです。
ここで、まずは自分の演出家時代の話をさせてもらえればと思っております。
私は東京の銀座生まれ。新橋演舞場という劇場前の喫茶店の息子で、幼稚園から日舞、茶道、中学校では一番興味があったのが仏像鑑賞でした。変わった環境ゆえ、友達は一切いない。会話が通じない。しまいには孤独に陥り、高校生のとき、一年間部屋に引きこもりました。実はこの時、聞いていた音楽から現れた視覚的イメージが、頭の中で割れんばかりに広がり、これが僕にとってクリエーションを爆発する最強なバネになりました。人と会話出来ない男が演出を通して多くの人と繋がるようになったのです。
昨今はオペラが多く、2019年に高田賢三さんに衣装を担当していただいた『蝶々夫人』を東京で開けました。しかし残念ながら高田賢三さんは新型コロナでお亡くなりになり、ドイツ、デンマークの公演も次々延期。今後予定されているアメリカ公演も、コロナの影響でまだ見えてません。私が海外でオペラ演出家として求められるのは、反逆精神です。今までのやり方をそのまま、周到するなら、わざわざ私を呼ぶ必要はありません。今までにない視点と発想が、求められるのです。2018年三島由紀夫のオペラ『金閣寺』(仏・ラン国立歌劇場)では、 元の台本にない原爆のシーンを入れたり、ワーグナー のオペラ『パルジファル』では、設定を美術館に変え、ワーグナーの純潔主義ではなく、多民族的共苦に変えました。オペラでは称賛のブラボー、非難のブーイングはつきものですが、ご想像の通り、これまでも酷く叩かれました。でもそれがヨーロッパでオペラをやるということなのです。保身になったら、演出家の存在はいらないのです。
最近、私は劇場という空間を超えることに興味があります、特に2015年、京都上賀茂神社の式年遷宮に際して上演した『降臨』は私の固定概念を崩してくれました。上賀茂神社の境内にある国宝、重要文化財を使い、神が降臨してくる様を野外劇として上演したのです。月が天空で輝き、風や木々のざわめきが音楽や台詞に呼応して、劇場の中のパフォーミングアーツ以上に森羅万象と結びつく瞬間を感じました。アートにも求められる目に見えないものと、リンクすることの凄みは、心や気などアンシーンなものの結びつきです。それは、テクノロジーの進化と対峙するのではなく、むしろ呼応していくものなのです。奉納劇でも目に見えないものが存在するよう、新たな映像やテクノロジーが功を成し自然が反応してくれました。そんな無限の可能性を楽しみ、演出家というより、コラボレーターとしてジャンルを超えたものに関わっていきたいと思っています。
ここで、まずは自分の演出家時代の話をさせてもらえればと思っております。
私は東京の銀座生まれ。新橋演舞場という劇場前の喫茶店の息子で、幼稚園から日舞、茶道、中学校では一番興味があったのが仏像鑑賞でした。変わった環境ゆえ、友達は一切いない。会話が通じない。しまいには孤独に陥り、高校生のとき、一年間部屋に引きこもりました。実はこの時、聞いていた音楽から現れた視覚的イメージが、頭の中で割れんばかりに広がり、これが僕にとってクリエーションを爆発する最強なバネになりました。人と会話出来ない男が演出を通して多くの人と繋がるようになったのです。
昨今はオペラが多く、2019年に高田賢三さんに衣装を担当していただいた『蝶々夫人』を東京で開けました。しかし残念ながら高田賢三さんは新型コロナでお亡くなりになり、ドイツ、デンマークの公演も次々延期。今後予定されているアメリカ公演も、コロナの影響でまだ見えてません。私が海外でオペラ演出家として求められるのは、反逆精神です。今までのやり方をそのまま、周到するなら、わざわざ私を呼ぶ必要はありません。今までにない視点と発想が、求められるのです。2018年三島由紀夫のオペラ『金閣寺』(仏・ラン国立歌劇場)では、 元の台本にない原爆のシーンを入れたり、ワーグナー のオペラ『パルジファル』では、設定を美術館に変え、ワーグナーの純潔主義ではなく、多民族的共苦に変えました。オペラでは称賛のブラボー、非難のブーイングはつきものですが、ご想像の通り、これまでも酷く叩かれました。でもそれがヨーロッパでオペラをやるということなのです。保身になったら、演出家の存在はいらないのです。
最近、私は劇場という空間を超えることに興味があります、特に2015年、京都上賀茂神社の式年遷宮に際して上演した『降臨』は私の固定概念を崩してくれました。上賀茂神社の境内にある国宝、重要文化財を使い、神が降臨してくる様を野外劇として上演したのです。月が天空で輝き、風や木々のざわめきが音楽や台詞に呼応して、劇場の中のパフォーミングアーツ以上に森羅万象と結びつく瞬間を感じました。アートにも求められる目に見えないものと、リンクすることの凄みは、心や気などアンシーンなものの結びつきです。それは、テクノロジーの進化と対峙するのではなく、むしろ呼応していくものなのです。奉納劇でも目に見えないものが存在するよう、新たな映像やテクノロジーが功を成し自然が反応してくれました。そんな無限の可能性を楽しみ、演出家というより、コラボレーターとしてジャンルを超えたものに関わっていきたいと思っています。
これまでのパフォーマティブな展示とは
片岡:私がキュレーターになった経緯というのは中々ストレートな物ではなくて、80年代に大学生の頃にニューヨークを訪れていて、そこで現代アートに出会ったことがきっかけなのですが、その頃同時代感というものが、日本では本当に限られた場所でしか感じられませんでした。たとえばニューヨークで見た注目されているアーティストの作品が、2年後に東京に来たりするとその時間差をしみじみ感じたりして、本当に同時代に同じ地球上で起こっていることを同時に見せられないかと思ったのです。
たまたま今西新宿にある「東京オペラシティ」にギャラリーを作るプロジェクトに関わることが出来たので、インターナショナルな基準に則った現代アートのギャラリーを計画をしました。その結果、枠組みがあることと、それを運用していくことは両輪だと感じ、99年から実際にその場所を使って、様々な国から現代アーティストを呼び始めました。その後、森美術館の初代館長デビット・エリオットの声掛けで、彼のチームに加わり、どうしたら理想的な現代美術館が出来るのかというチャレンジをすることになりました。
森美術館で2014年に開催した「リー・ミンウェイ」という、台湾生まれのアーティストの展覧会は、観客が参加することによって成立する展示でした。たとえば観客の人達がほつれた自分の服を持ってきて、ボランティアの人達が毎日美しくほつれを繕います。カラフルな糸が壁に展示されたコーンからどんどん引っ張られていって、本当に美しいインスタレーションになっていきます。それが人と人との繋がりを象徴するように成長していくというわけです。
その後2018年に「第21回シドニービエンナーレ」の芸術監督を務めたのですが、その中では日本の演出家の高山明が、自分の母国語で忘れられない大切な歌を歌う、もしくは詩を舞台で歌うプロジェクトに、シドニーの郊外も含めて参加者を募集しました。シドニー近郊の文化の多様性が本当に明らかになるようなプロジェクトだったと思います。あとはスザンヌ・レイシーの<サークル&スクエア>というプロジェクトでは様々な移民がいるマンチェスターの街で、キリスト教徒とスーフィー教の人達のコミュニティを交流させるために、両方でチャントを歌ってもらって、それを1つにまとめた映像作品を作りました。美術館向けの作品でない場合はコミュニティの中で実際のパフォーマンスもしくは制作をして、映像で作品化するというパターンが多く、これもその一例です。このような感じでいくつかパフォーマティブなプロジェクトを一緒にやってきましたので、この先のお話に続けばと思いご紹介させていただきました。
「リアルに触れる」ことを今一度考える時代
片岡:今回のコロナ禍で森美術館も他の美術館と同様に5ヶ月間クローズしました。その後「STARS展」を開けたのですが、本当にリアルな空間でスケール感や素材感を感じたりすることはオンラインではできませんし、やはりリアルは全然違うということを改めて実感する機会になったのではないかな、と思っています。ただ一方では、首都圏外の方、それこそ国境を越えて来られない方達にとっては、オンラインでもいいから繋がりたいという思いが凄くありまして、できる所から徐々に提供し始めているのです。リアルなものとそうではないものの得手不得手がよく見えてきたように感じています。宮本さんはさきほど、舞台で起きることが空間さえも超えていくような感覚が得られたと言われていましたが、何かこの昨今の状況に対して、宮本さんの視点から考えられていることはあるのでしょうか。
宮本:新型コロナで世間は変わったという方がいますが、僕はここ10年ぐらい前から、ある人々の気持ちの中で変化して来たことが、これを機として、瞬時に浮き彫りになって来ただけだと思います。
昨今のステージで例えると、真ん中に線を一本ひいて、片方が見る側、片方が見せる側に分かれていた。それに見せる側には演出家や、観る側には評論家のような人達がまとわりついていた。でも原点に戻って考えると、見せる側と見る側がじかに結び付き、直接感じあえばいいだけなんです。付属なものが多すぎて、かえって個人的主観や視点のアンテナを鈍らせて来たのだと僕は思います。そんな時、新型コロナが現れ、原点回帰が始まったのです。
最初に演出家・宮本亞門はいらないと言ったのはそこです。稀薄になってしまった人と人が本気で深くリアルに関われる瞬間が、今、やっとコロナの断絶により、もっと求められるようになったと思います。また、僕なりに30年間演出家をして来て、「完成度が高い緻密なものを作らなくては」と思ってきたのですが、最近はそこにも疑問も感じています。作り上げることより、その前の段階や過程、その中で探る意味合いこそが、見る側と共有するべきものではないかと。
よく言われている通り、ペストがあってから生まれたルネッサンスの文芸復興では、聖母や人間の本来の美しさを愛おしく描いています。歴史が語るように、このコロナ禍を体験して、私たちはブレーキをかけなくては思い出せなかった原点を、テクノロジーを絡ませた新たな表現で展開されるのを、とても楽しみにしているんです。
片岡:人々のコミュニケーション、もしくは外界との接続、媒介がスマホになったりコンピューターになったりしていく中、現代アートのコンテキストでは、パフォーマンスや手業を使ったものが舞い戻って来た感じがあります。やはり単にリアルな空間ということではなくて、本当に心が動くかどうか、エネルギーが本当に相手に伝わるのかどうかという点が、今後は求められますね。
宮本:フェイクが取りざたされる今、リアルってなんだろうと思います。たとえばドキュメンタリー映画、それこそリアルではない。つまり監督の主観や、それによる構成が入っている。監督の考える人間像が描かれているのです。私はその主観が悪いと言っているのではありません。現代では、どれがリアルかフェイクかは、自分自身の判断に委ねられているということなんです。片岡さんがおっしゃる通り、心が動いたものがリアルなんです。またリアルで忘れてはならないのは、生と死です。精神以上に、誰もが持つ肉体、命もリアルです。死んでしまっては終わりなんですから。しかし人間はそれをもコントロールする。でもそれだけに、心と身体、エネルギーが結ばれたいという思いが、コロナ禍で一段と高まるのは、素晴らしいことだと思います。
片岡:ソーシャルディスタンスという言葉が広がりましたが、そのディスタンス、距離というモノをどういう風に縮めていけるのか、オンラインというメディアを通して、本当に遠く離れて国境を越えた人達とも繋がり続けられるのか、ということは今後の美術館にとっても劇場にとっても大きな課題になっていくだろうなと思いますね。リアルな空間で展覧会を見る素晴らしさを分かっているだけに、未だにオンラインだけの展覧会には心が動かない。例えばアーティストのスタジオを訪問して見せるとか、自分でスマホを持って私が見ている目線でインスタライブをやるとか、そういった方法はこちらも繋がりを感じられる体験でした。
宮本:新型コロナで世間は変わったという方がいますが、僕はここ10年ぐらい前から、ある人々の気持ちの中で変化して来たことが、これを機として、瞬時に浮き彫りになって来ただけだと思います。
昨今のステージで例えると、真ん中に線を一本ひいて、片方が見る側、片方が見せる側に分かれていた。それに見せる側には演出家や、観る側には評論家のような人達がまとわりついていた。でも原点に戻って考えると、見せる側と見る側がじかに結び付き、直接感じあえばいいだけなんです。付属なものが多すぎて、かえって個人的主観や視点のアンテナを鈍らせて来たのだと僕は思います。そんな時、新型コロナが現れ、原点回帰が始まったのです。
最初に演出家・宮本亞門はいらないと言ったのはそこです。稀薄になってしまった人と人が本気で深くリアルに関われる瞬間が、今、やっとコロナの断絶により、もっと求められるようになったと思います。また、僕なりに30年間演出家をして来て、「完成度が高い緻密なものを作らなくては」と思ってきたのですが、最近はそこにも疑問も感じています。作り上げることより、その前の段階や過程、その中で探る意味合いこそが、見る側と共有するべきものではないかと。
よく言われている通り、ペストがあってから生まれたルネッサンスの文芸復興では、聖母や人間の本来の美しさを愛おしく描いています。歴史が語るように、このコロナ禍を体験して、私たちはブレーキをかけなくては思い出せなかった原点を、テクノロジーを絡ませた新たな表現で展開されるのを、とても楽しみにしているんです。
片岡:人々のコミュニケーション、もしくは外界との接続、媒介がスマホになったりコンピューターになったりしていく中、現代アートのコンテキストでは、パフォーマンスや手業を使ったものが舞い戻って来た感じがあります。やはり単にリアルな空間ということではなくて、本当に心が動くかどうか、エネルギーが本当に相手に伝わるのかどうかという点が、今後は求められますね。
宮本:フェイクが取りざたされる今、リアルってなんだろうと思います。たとえばドキュメンタリー映画、それこそリアルではない。つまり監督の主観や、それによる構成が入っている。監督の考える人間像が描かれているのです。私はその主観が悪いと言っているのではありません。現代では、どれがリアルかフェイクかは、自分自身の判断に委ねられているということなんです。片岡さんがおっしゃる通り、心が動いたものがリアルなんです。またリアルで忘れてはならないのは、生と死です。精神以上に、誰もが持つ肉体、命もリアルです。死んでしまっては終わりなんですから。しかし人間はそれをもコントロールする。でもそれだけに、心と身体、エネルギーが結ばれたいという思いが、コロナ禍で一段と高まるのは、素晴らしいことだと思います。
片岡:ソーシャルディスタンスという言葉が広がりましたが、そのディスタンス、距離というモノをどういう風に縮めていけるのか、オンラインというメディアを通して、本当に遠く離れて国境を越えた人達とも繋がり続けられるのか、ということは今後の美術館にとっても劇場にとっても大きな課題になっていくだろうなと思いますね。リアルな空間で展覧会を見る素晴らしさを分かっているだけに、未だにオンラインだけの展覧会には心が動かない。例えばアーティストのスタジオを訪問して見せるとか、自分でスマホを持って私が見ている目線でインスタライブをやるとか、そういった方法はこちらも繋がりを感じられる体験でした。
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