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私とは何か?~自分探しの立ち位置~

読みたい本が見つかる「カフェブレイク・ブックトーク」

更新日 : 2010年01月12日 (火)

第4章 「自分探し」の〈立ち位置〉の問題(1)

六本木ライブラリー カフェブレイクブックトーク 紹介書籍
澁川雅俊: 冒頭に挙げた『私とは何か—さて死んだのは誰なのか』(池田晶子著、わたくし、つまりNobgody編、09年講談社)の「『私とは誰か』から考えよう」という一篇のエッセイがあり、その中にこんなことが書いてあります。少し要約しつつご紹介します。

——たとえば自分のことをまず「私は日本人である」としてみます。それはそれで間違いないのだけれど、大事なのは「日本人」といっている「私」とは誰かということなのです。「日本人」というのは自分の属性の一つに過ぎない。そう考えてみると太古の昔から人類は変わったかというと、ちっとも変わっていない。動いているのは時代や環境のほうで、人はちっとも変わっていないのです。だから「自分探し」(※哲学をする)というのは周囲の動きに動じない自分自身を所有することなのではないでしょうか——

さてそれでは、なにごとにも動じない自分を探し出すにはどうすればよいのでしょうか。

●そもそも「私はどこから来たのか」

この問いに、私ならまずこう応えるでしょう。「いまから70年前、今はなき母の胎内から生じた」と。もちろん聖母マリアのように処女懐妊というわけにはいきませんから、父が私の出生にかかわったことは明らかです。

「ではその父母はどこから来たのでしょうか」。ここに『おじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃん』(長谷川義史作、2000年BL出版)という一冊の絵本があります。この本の中で5歳の子の「ねえ、おじいちゃん。おじいちゃんのおじいちゃんはどんなひと?」という素朴な質問が、その5歳の子の存在の時をどんどん遡っていくことになっていきます。実はそこに、「自分探し」の別の視座が見えてきます。

私は今回のブックトークの標題で〈立ち位置〉ということばを標題に使っています。それは平たく言うと、「自分探し」の視点・視座のことです。

「自分探し」は一人ひとりの自己の問題ですから、どうしても自分自身が中心になります。しかしあくまでも自分にこだわって追求していくと、おおかたの場合、納得いく前に煮詰まってしまいます。そんなときにはこう考えてみたらどうでしょうか。人間というのは一人では生きていけない存在。一人ひとりの人間には、自分を取り巻く環境が強くかかわっている。そこで「自分探し」をするときには、ちょっとだけ自分自身を忘れて、自分を取り巻くさまざまなものごととの関連で問い直してみたらどうか……というのがここでいう〈立ち位置〉(トポロジー。位相)なのです。

ではどのようにその〈立ち位置〉を定めたらいいのでしょうか。