六本木ヒルズライブラリー

【ライブラリーイベント】開催レポート
角栄を撮り続けた報道写真家がみた、
田中角栄の人の心をつかむ「言葉」と「リーダーシップ」

ライブラリーイベント

日時:2017年5月12日(金)19:15~20:45@スカイスタジオ

没後24年、テレビや雑誌で数多くの特集が多く組まれるなど、再び注目が集まっている田中角栄元首相。このブームの火付け役である宝島社の編集者欠端大林氏と、角栄に密着し続け、数多くのエピソードを知る報道写真家・山本皓一氏をお迎えし、知られざる田中角栄のエピソードをお話いただきました。

田中角栄を知らない若者たち


この本を出版したきっかけは、山本さんが大学で講義をしたときに、様々な話題の中に田中角栄の話も盛り込んだところ、学生からのアンケートには、田中角栄の話をもっと聞きたいという意見が多数あったそうです。その後、欠端さんと別の仕事で一緒になり、二人とも田中角栄の本を出版したいということで意気投合し、最初のきっかけ通り、若者をターゲットにした田中角栄の本ということで方針が決まったそうです。

若者向けということで、コンビニを中心に販売し、最終的に80万部のうち、60万部がコンビニ、20万部が書店の販売というベストセラーとなりました。それから1年間の間に30冊程度、様々な出版社から田中角栄の本が発売され、ブームの火付け役となりました。

「金権政治家・田中角栄を撮らざるは、ジャーナリストにあらず」



さて、出版社の雑誌写真記者を経てフリーランスのフォト・ジャーナリストとなり、世界の国々のルポルタージュや、湾岸戦争、ドイツ統一、ソ連崩壊など国際事件をカバーし、作品を国内外の紙誌で発表している山本さん。 実は、政治専門の写真家ではなく、本当はアマゾンやヒマラヤなどの秘境の写真を撮りたかったのだそうです。しかし、毎週毎週の締切に追われる週刊誌のカメラマンに見切りをつけてフリーランスとなった当時の山本さんには、秘境への取材のための十分な資金がなく、それならばと当時ロッキード事件の判決の1年前でメディアの注目を浴びていた田中角栄を撮ろうと決めたと言います。

当時、「金権政治家・田中角栄を撮らざるは、ジャーナリストにあらず」というような風潮があったそうで、メディアに取り上げられる田中角栄は、本人の写真嫌いも手伝って、いかにも金権政治家の険しい表情のおどろおどろしい写真ばかりだったのだとか。そのことに違和感を覚えた山本さんは、もっと違う面の田中角栄を撮っておかないと、後世「あのころのジャーナリストは何をしていたのか?」と非難されるのではないかと思ったそうです。

軽井沢合宿に同行


田中角栄に密着して撮り始めた頃は、なかなか近寄れなかった山本さんも、1年撮っているうちにだんだんとその存在が認識されるようになりました。幾度となく秘書の早坂さんに、角さんとお孫さんの写真を撮りたいとお願いしていたところ、ある日、角さん(山本さんは親しみと込めてこう呼んでいました)本人から「そんなに孫の写真が見たいか?そんなに見たいなら来い」と呼ばれて目白の自宅に招き入れてくれたそうです。そして自宅に入ると、当時主婦をしていた真紀子さんとお孫さんとの写真を撮られせてくれたのだそう。真紀子さん絡みの写真は許可が厳しいとのことで、ほとんど外に出ていない田中角栄、真紀子さん、お孫さんが一枚の写真におさまった作品を披露いただきました。

さらに、写真集を作りたいので、軽井沢の合宿(夏に1カ月軽井沢にこもることを角栄はそう呼んでいた)に参加させて欲しいという手紙を書いたところ、「私を殺す気か?」と言われたそうです。「軽井沢は年に1度の命の洗濯で、仕事は持ち込まない。」とは言われたものの、手紙を突き返されることはなく、少しだけ希望をもっていたところ、案の定、合宿の日になったら軽井沢の山荘に招きいれてくれたのだそうです。しかし、写真を撮ろうとするとじろりとにらまれて、なかなか撮れる状況ではなかったとか。「そんなに見たければ見せてやるが、これは仕事ではないので撮るな。お前を招き入れたのは、仲間だと思うからだ。」と言われているようで、結局、軽井沢の山荘ではご本人の写真は1枚も撮れなかったそうです。そして、そんな自分が悔しくて、本人以外の家のものを手当たり次第に撮影したと山本さんは当時を振り返ります。

田中角栄、脳梗塞で倒れる


田中角栄が脳梗塞で倒れたのは、この時の山本さんの写真集(現在は絶版)が発売されて20日後だったそうです。一命を取り留めた角さんは、車いすに座り目白の自宅で療養していました。「あの田中角栄」が弱々しく車いすに座っている姿をカメラに収めようと、目白の家の前にはマスコミ各社の2メートルほどある脚立が乱立し、イメージが180度変わった田中角栄をこぞって撮りたがったそうです。

そんな多数のメディアを尻目に、山本さんはまったく撮る気にならなかったのですが、ある別の空撮の仕事で目白上空を通った際、ひょいと見ると車いす姿の角さんが、偶然庭に出ていて、さすがの山本さんも夢中でシャッターを切ったと言います。空撮されていることに気がついて慌てて家の中に隠れる様子も撮影したものの発表する気にはなれず、他のカメラマン連中が大騒ぎするなか、結局は角さんが亡くなるまで公にはしなかったのだそうです。

長い間、歴代の政治家を撮ってきた山本さん曰く、政治家が総理に就任するとだんだんと悪人顔に人相が変わってくるそうです。山本さんの持論では、その人相の変化は、様々な難しい決断を行う過程でのことなので、悪党面になった政治家はちゃんと仕事をした人として信用できると考えているそうです。昔は、今では考えられないほどお金のかかる政治だったので、裏金にまつわる事件がたくさんありました。田中角栄が総理大臣の時代は、お金のかかる政治のちょうど転換期であり、以降、このような大きな事件は減少しています。

田中角栄という人物は、剛腕で強面な面と愛きょうの良さを持ち合わせていたそうですが、今はこの両面を持ち合わせた政治家はなかなかいないと嘆く山本さんは少し寂しそうでした。

田中角栄の素顔を撮り続けて


1984年12月24日の一審判決では、懲役4年の実刑判決でした。出かける時は晴れ晴れとした気持ちで出かけた田中角栄ですが、判決後の帰りの車では一切喋らず、車で目白に着くほんの少し前に一言「許さん」と大きな声で言ったそうです。その一審判決から9年後の1993年に田中角栄氏が亡くなりました。祭壇に使われた写真は山本さんの撮った写真だったそうで、それを見たときは感無量だったと語ります。

「被告人」のままこの世を去った田中角栄。懲役4年という判決が下り、本当にそれだけの罪人だったのか否かという議論が今の時代でもされています。今となっては知るすべもありませんが、田中角栄との様々なエピソードを紹介してくれた山本さんのお話には、田中角栄の素顔を撮影してやろうと密着しつづけた山本さんを同志として扱ってくれた角栄氏への敬愛の気持ちがあふれていました。


【スピーカー】山本 皓一(報道写真家)
【モデレーター】欠端 大林(宝島社編集担当)