記事・レポート
「欲望」以外が資本主義のエンジンとなり得るのか?
<イベントレポート>
更新日 : 2024年07月23日
(火)
【後編】「脱成長」とは異なる、第三の道はあるか?
開催日:2024年4月23日 イベント詳細
鎌田安里紗 (一般社団法人unisteps共同代表理事)
丸山俊一 (NHKエンタープライズ エグゼクティブ・プロデューサー/立教大学大学院特任教授/東京藝術大学客員教授)
高津尚志 (IMD北東アジア代表)
「見なくて済むように」してきたものを「見なければならない」
高津:3名のスピーチ(前編)を受け、ここからは参加者の方も自由にご意見、ご質問どうぞ。
会場:鎌田さんのお話のなかで、「服のたね」プロジェクトで得られるものは「違うタイプの喜び」だとおっしゃっていましたが、それが具体的にどういうことで、それは丸山さんのお話されていた「欲望」と「欲求」と関係しているのか。関係しているとしたら、どういうところなのかを、お二人にお伺いしたいです。
鎌田:私は、今日丸山さんのお話を聞いて初めて「欲望」と「欲求」を分けて考えたのですが、さきほど私が語った別のタイプの「喜び」(自分で作った綿が入っている洋服を着る体験、結びつきが強い物を手に入れるという喜び)は、「欲望」の一部かもしれない、と思います。なので、「欲望」そのものが悪いわけではなく、そのなかにも色々な要素があり、それとどう対峙していくかを考えたときに、これまでと違う新しい道が開けるのかも、という発見がありました。
丸山:僕が申し上げたいのは、「強欲」を控えましょうということではなく、「欲望」という言葉が意味する領域を広く深く捉えて考えていくほうが、実は生産的ではないかということなんですね。鎌田さんの「服のたね」のプロジェクトは、「欲望」と「欲求」の間を自在に動ける、精神の柔軟性を維持するための可能性を感じ、興味深くお聞きしていました。
高津:すごく大事な問いなので、もう少し掘り下げましょう。鎌田さんは、自分たちがなさっていることを、あえて「欲望」として捉えるなら、どんな「欲望」であると思いますか。
鎌田:新しいタイプの「喜び」、より納得感を持ちたい、ということでしょうか。私たちは消費者として生きることが社会生活の中心だと思います。でも、消費者として何かを選ぶときに、自分の価値観にぴったり合ったものを選ぶのが難しい社会だと思うんです。例えば「自然や動物を大事にしたい」と思っているとして、目の前にあるチョコレートや洗剤に使われているものが森林破壊をしていないかどうかは、直ちにわからない場合が多いですよね。だから、わからないまま選択を重ねていく。「服のたね」のプロジェクトは、そういったものを選ぶときの解像度を高めるひとつのプロセスではないかと思っています。
丸山:今の「新しい喜び」に関連して思い浮かべていたのが、マルクスや、アダム・スミスのことです。アダム・スミスが工場で働く人たちの姿からインスピレーションを得て『国富論』で諸国民に対して富の本質を説いたように、マルクスが資本家階級と労働者階級が生まれたことで結果的に人間性、労働の喜びが阻害されると憤っていたように、彼らが見つめていた本質的な人間の「喜び」のようなものと重なる、といいましょうか。実はもともと人間がもっていた精神を再発見している「喜び」なのではないか、そのプロセスとしても捉えてもいいかなと思いながら聞いていました。
高津:丸山さんの指摘は、「喜び」をかなり広く捉えた考え方だと思いますが、安里紗さんの活動の3つの軸のうち、生活者との取り組みについて、もう少しご説明いただけますか。具体的には、生活者は「買う」という行為だけで持続可能性への取り組みが完結するのか、それとももっと広く何かを求めているのでしょうか?
鎌田:生活者との取り組みのひとつに「生産と廃棄の現場を巡るスタディツアー」をやっています。これは実際にものをつくっている工場に行く、あるいは、自分たちが服を廃棄したあと、ゴミ捨て場に出したあとの普段見えないところに行く、といったツアーです。「服のたね」のプロジェクトと同じく、体感として何を感じるか情報を得るために行くわけです。さきほどの問い「消費者が、消費すること以上のことを求めているか」という視点でいくと、求めている方が一定数いると強く感じます。納得感が得られない現代消費社会のなかで、どういうふうに自分の解像度をあげ、納得のいくチョイスをし、それによってまた考えを進めるか、ある種の知的好奇心、かもしれないです。
高津:それは、美しく格好いい服を着て自分をよく見せたい、モテたい、といった「欲望」とは次元が違う、方向性の違う「欲望」でしょうか?
鎌田:おそらく、それはあったうえで、重なってきていると思います。見た目がいいだけでは満足できないという、さらなる「欲望」かもしれません。
丸山:以前「欲望の資本主義」のナレーションでも、「りんごを高く売ることに夢中になって、りんごの味を忘れてしまったのか」という寓話的な言葉を入れたことがあります。つまり、交換価値だけが駆け巡るような、数字だけの世界に資本主義がきてしまっているとすると、そういった社会に対して、どうやって免疫力をつくっていくべきなのか。我々が生活をしていくなかでは見ないで済むことがありすぎるので、さきほどのゴミの行方もそうですが、人間社会にある生活の営みと自分をどうつなげていくかを意識すること、そのなかでどんなバランスがとれるのか、ということは考えますね。
鎌田:改めて、私がファッションへの問題意識をもった入り口についてお話したいと思います。店舗で服の販売スタッフをしていた時に、一人のお客様が洋服を手にとって「これかわいい」と言うと、一緒にいらしたお客様が「さっき似ているものを、もっと安く売ってたじゃん」と言うことが多くなった時期がありました。それは、ファストファッションというビジネスモデルが主流化した時期と重なっています。その流れのなかでは、会社としてよりコストを下げる方向に向かおうとします。そうなると、自社でオリジナルで作ることが難しくなり、中国や韓国などの巨大市場に行き、何万枚とある服の中から買い付けてきて、自社のタグをつけて売るというビジネスになっていきます。すると、服が好きで働いている人がこだわって服を作れなくなり、自分は一体何の仕事をしているんだろう?という問いが生まれます。さきほど丸山さんがおっしゃったような数字だけの世界に向かっていると、日々やっている生産活動、消費活動について、これは一体何?という実体の無さに不安感、不満を覚えて、別の何かを探す、という流れはありますよね。
丸山:そうですね。1970年に、フランスの思想家、ジャン・ボードリヤールは著書『消費社会の神話と構造』において、これからの時代は疲労が世界的な問題となる、と書きました。そこから半世紀以上経って、大衆消費社会が拡がっていくなかで、仕事の面だけみても、何のためにやっているのか、と思う人が生まれてきている現状があります。無形資産、ポスト産業資本主義、第三次産業主体で生きていく社会では、どうしても本来の目的と手段が逆転していくような現象が起こるのだと思います。
高津:「見なくて済む物がありすぎる」という言葉は、すごく大事なポイントだと思います。資本主義社会では、色々なものを「見なくて済むように」してきたのだけれども、本当は見なければならないということに気づいて、それをきちんと見せていこうとしているのが安里紗さんの活動だと捉えられますね。
鎌田:そうですね、そして、それを「見たい」と思う人が増えてきたと思います。なぜならば、情報が入ってきてしまうから。デジタルネイティブといわれる世代がいることも関係していると思いますが、例えば、現実に目の前で溺れている人がいたら誰でも手を差し伸べたくなるように、それがSNS上であっても、見えてしまうと、気になって、解決したいという気持ちが湧いてくるのは自然なことだと思うんです。今ファッション産業では、リユースの目的を持って輸出されたはずの古着が、ケニアやガーナなど色々な国で環境汚染に繋がってしまっているのですが、そのニュースを見たときも他人事だと思えない。だから、自分との世界のつながりを確かめたくなって、現場に行きたくなるのだと思います。
高津:画面上では、アフリカで起きていることと日本で起きていることが同じように見えるんですよね。
鎌田:はい。物理的な距離を感じず、自分ごとに思える、ということがありますよね。もちろん全員がそう感じるわけではありませんが、そういう層が一定数いるので、実際に現場を見たいという「欲望」が生まれるのかもしれないですね。
丸山:そこに両義性がありますよね。色々なことに敏感で問題意識を持ち行動できる人と、逆にあまりにも情報があり過ぎて感覚が麻痺していく人もいる。動物である本能的な部分と、抽象的に文化をつくる理性的な部分、本来人間はその二つの側面を持っているはずですが、その間に連続性がないと、どちらか一方の人が生まれてきて分断が生まれる。そういったところにも問題の原因があるような気がします。
会場:鎌田さんのお話のなかで、「服のたね」プロジェクトで得られるものは「違うタイプの喜び」だとおっしゃっていましたが、それが具体的にどういうことで、それは丸山さんのお話されていた「欲望」と「欲求」と関係しているのか。関係しているとしたら、どういうところなのかを、お二人にお伺いしたいです。
鎌田:私は、今日丸山さんのお話を聞いて初めて「欲望」と「欲求」を分けて考えたのですが、さきほど私が語った別のタイプの「喜び」(自分で作った綿が入っている洋服を着る体験、結びつきが強い物を手に入れるという喜び)は、「欲望」の一部かもしれない、と思います。なので、「欲望」そのものが悪いわけではなく、そのなかにも色々な要素があり、それとどう対峙していくかを考えたときに、これまでと違う新しい道が開けるのかも、という発見がありました。
丸山:僕が申し上げたいのは、「強欲」を控えましょうということではなく、「欲望」という言葉が意味する領域を広く深く捉えて考えていくほうが、実は生産的ではないかということなんですね。鎌田さんの「服のたね」のプロジェクトは、「欲望」と「欲求」の間を自在に動ける、精神の柔軟性を維持するための可能性を感じ、興味深くお聞きしていました。
高津:すごく大事な問いなので、もう少し掘り下げましょう。鎌田さんは、自分たちがなさっていることを、あえて「欲望」として捉えるなら、どんな「欲望」であると思いますか。
鎌田:新しいタイプの「喜び」、より納得感を持ちたい、ということでしょうか。私たちは消費者として生きることが社会生活の中心だと思います。でも、消費者として何かを選ぶときに、自分の価値観にぴったり合ったものを選ぶのが難しい社会だと思うんです。例えば「自然や動物を大事にしたい」と思っているとして、目の前にあるチョコレートや洗剤に使われているものが森林破壊をしていないかどうかは、直ちにわからない場合が多いですよね。だから、わからないまま選択を重ねていく。「服のたね」のプロジェクトは、そういったものを選ぶときの解像度を高めるひとつのプロセスではないかと思っています。
丸山:今の「新しい喜び」に関連して思い浮かべていたのが、マルクスや、アダム・スミスのことです。アダム・スミスが工場で働く人たちの姿からインスピレーションを得て『国富論』で諸国民に対して富の本質を説いたように、マルクスが資本家階級と労働者階級が生まれたことで結果的に人間性、労働の喜びが阻害されると憤っていたように、彼らが見つめていた本質的な人間の「喜び」のようなものと重なる、といいましょうか。実はもともと人間がもっていた精神を再発見している「喜び」なのではないか、そのプロセスとしても捉えてもいいかなと思いながら聞いていました。
高津:丸山さんの指摘は、「喜び」をかなり広く捉えた考え方だと思いますが、安里紗さんの活動の3つの軸のうち、生活者との取り組みについて、もう少しご説明いただけますか。具体的には、生活者は「買う」という行為だけで持続可能性への取り組みが完結するのか、それとももっと広く何かを求めているのでしょうか?
鎌田:生活者との取り組みのひとつに「生産と廃棄の現場を巡るスタディツアー」をやっています。これは実際にものをつくっている工場に行く、あるいは、自分たちが服を廃棄したあと、ゴミ捨て場に出したあとの普段見えないところに行く、といったツアーです。「服のたね」のプロジェクトと同じく、体感として何を感じるか情報を得るために行くわけです。さきほどの問い「消費者が、消費すること以上のことを求めているか」という視点でいくと、求めている方が一定数いると強く感じます。納得感が得られない現代消費社会のなかで、どういうふうに自分の解像度をあげ、納得のいくチョイスをし、それによってまた考えを進めるか、ある種の知的好奇心、かもしれないです。
高津:それは、美しく格好いい服を着て自分をよく見せたい、モテたい、といった「欲望」とは次元が違う、方向性の違う「欲望」でしょうか?
鎌田:おそらく、それはあったうえで、重なってきていると思います。見た目がいいだけでは満足できないという、さらなる「欲望」かもしれません。
丸山:以前「欲望の資本主義」のナレーションでも、「りんごを高く売ることに夢中になって、りんごの味を忘れてしまったのか」という寓話的な言葉を入れたことがあります。つまり、交換価値だけが駆け巡るような、数字だけの世界に資本主義がきてしまっているとすると、そういった社会に対して、どうやって免疫力をつくっていくべきなのか。我々が生活をしていくなかでは見ないで済むことがありすぎるので、さきほどのゴミの行方もそうですが、人間社会にある生活の営みと自分をどうつなげていくかを意識すること、そのなかでどんなバランスがとれるのか、ということは考えますね。
鎌田:改めて、私がファッションへの問題意識をもった入り口についてお話したいと思います。店舗で服の販売スタッフをしていた時に、一人のお客様が洋服を手にとって「これかわいい」と言うと、一緒にいらしたお客様が「さっき似ているものを、もっと安く売ってたじゃん」と言うことが多くなった時期がありました。それは、ファストファッションというビジネスモデルが主流化した時期と重なっています。その流れのなかでは、会社としてよりコストを下げる方向に向かおうとします。そうなると、自社でオリジナルで作ることが難しくなり、中国や韓国などの巨大市場に行き、何万枚とある服の中から買い付けてきて、自社のタグをつけて売るというビジネスになっていきます。すると、服が好きで働いている人がこだわって服を作れなくなり、自分は一体何の仕事をしているんだろう?という問いが生まれます。さきほど丸山さんがおっしゃったような数字だけの世界に向かっていると、日々やっている生産活動、消費活動について、これは一体何?という実体の無さに不安感、不満を覚えて、別の何かを探す、という流れはありますよね。
丸山:そうですね。1970年に、フランスの思想家、ジャン・ボードリヤールは著書『消費社会の神話と構造』において、これからの時代は疲労が世界的な問題となる、と書きました。そこから半世紀以上経って、大衆消費社会が拡がっていくなかで、仕事の面だけみても、何のためにやっているのか、と思う人が生まれてきている現状があります。無形資産、ポスト産業資本主義、第三次産業主体で生きていく社会では、どうしても本来の目的と手段が逆転していくような現象が起こるのだと思います。
高津:「見なくて済む物がありすぎる」という言葉は、すごく大事なポイントだと思います。資本主義社会では、色々なものを「見なくて済むように」してきたのだけれども、本当は見なければならないということに気づいて、それをきちんと見せていこうとしているのが安里紗さんの活動だと捉えられますね。
鎌田:そうですね、そして、それを「見たい」と思う人が増えてきたと思います。なぜならば、情報が入ってきてしまうから。デジタルネイティブといわれる世代がいることも関係していると思いますが、例えば、現実に目の前で溺れている人がいたら誰でも手を差し伸べたくなるように、それがSNS上であっても、見えてしまうと、気になって、解決したいという気持ちが湧いてくるのは自然なことだと思うんです。今ファッション産業では、リユースの目的を持って輸出されたはずの古着が、ケニアやガーナなど色々な国で環境汚染に繋がってしまっているのですが、そのニュースを見たときも他人事だと思えない。だから、自分との世界のつながりを確かめたくなって、現場に行きたくなるのだと思います。
高津:画面上では、アフリカで起きていることと日本で起きていることが同じように見えるんですよね。
鎌田:はい。物理的な距離を感じず、自分ごとに思える、ということがありますよね。もちろん全員がそう感じるわけではありませんが、そういう層が一定数いるので、実際に現場を見たいという「欲望」が生まれるのかもしれないですね。
丸山:そこに両義性がありますよね。色々なことに敏感で問題意識を持ち行動できる人と、逆にあまりにも情報があり過ぎて感覚が麻痺していく人もいる。動物である本能的な部分と、抽象的に文化をつくる理性的な部分、本来人間はその二つの側面を持っているはずですが、その間に連続性がないと、どちらか一方の人が生まれてきて分断が生まれる。そういったところにも問題の原因があるような気がします。
「脱成長」とは異なる、第三の道はあるか?
会場:高津さんのお話にあった「サステナビリティは戦略をリセットする」には具体的にはどうしたらいいのでしょうか?
高津:まさに私も勉強中で、本が一冊書けそうな内容ですが(笑)、今言える大きなポイントのひとつは、安里紗さんがおっしゃっていた「見る」ということだろうと思います。自分たちのビジネスが一体どこにどのように影響を与えているかということを「見る」、何か変わることによってどのような変化があるかを「見る」。そして、それを意識すること、いわゆるアウェアネス(awareness)が非常に重要です。最近聞いた面白い話で、あるチョコレート会社がサステナブルな会社でありたいと、製造工程のどこで最も温暖ガスを出しているかを調べると、なんと原材料である乳製品のもとである牛が出すメタンガスだということがわかった、と(牛のげっぷには、温室効果ガスのひとつであるメタンガスが含まれている)。それで、彼らは豆乳を使うという手段をとることにしたのだそうです。DXによって、様々なデータを計ることができるようになり、自分たちが何を消費していて、どこにどのような負担を与えているかを「見る」ことができ、そこから変化していくことが重要だと言われています。
鎌田:丸山さん、高津さんに聞いてみたいと思っていたのですが、プラネタリーバウンダリー(地球環境の境界、限界値)について、例えば気候変動問題など、多くの人が認知していて、人類が地球で継続的に生活していくためには何かしらの変化が必要だということは誰もがわかっています。一方で、なかなか抜本的なシステムの変革を、実際にやるというところまではいかない。これは、どういう背景だと思われますか?今すぐ変革するメリットより、変えることでのネガティブなインパクトが大きいので、ジワジワやっていこうというチョイスになっているのか、それとも、なんとなく現状が変えづらいのか。
丸山:これについて誠実に話し出すと2時間くらいかかりそうですね(笑)。経済思想家の斎藤幸平さんと、どう現状を変えていくか、似たような構図について、話題にしたことが過去にもありました。 彼が『人新世の「資本論」』を世に出す前のことだったと思いますが、アメリカでマルクスの思想に出会った斎藤さんは、当時、変革が必要な状況では、資本主義に対しても徹底的に理念を駆使して制限をかけることが必要という考え方だったと記憶します。僕は、人間は色々なものを知ってしまえば、頭ではわかっても、知ってしまった感覚に制限をかけられるような変化に耐えられないのではないか、というスタンスでした。ちょうど議論をしていた場所が、たくさんの種類のコーヒーから選べるカフェだったのですが、「例えば、今からこの店のコーヒーを1種類にします、と言われても、多くの消費者が納得しないのでは?」という問いに、斎藤さんが「いや、それでも2種類までと決めたなら、がんばるんですよ」とお答えになったことが今も記憶に残っています。今なら斎藤さんもどう答えられるか?わかりませんが、その気持ちは理解できても、やはり、理念だけでは人間の行動に制限をかけることは難しいと、僕は基本的に考えるのです。人間のそうした性を踏まえて考えないと、社会のどこかに歪みが生まれるように思えます。
高津:私が代表を務めるIMDビジネススクールでは、2023年6月に世界50カ国から450人のエグゼクティブ(企業幹部)が集まるプログラム「OWP」で、選択科目として初めて「グリーン成長(Green Growth)vs. 脱成長(De-growth)」を設定しました。ビジネススクールであれば、基本的には成長すべきだろうという方向になりがちですが、初めて脱成長について世界中のエグゼクティブと議論する、というかなり勇気のあるテーマで、結果的にとても面白い内容になりました。
面白かった理由は二つあります。まずひとつは「グリーン成長」との対立構造にしたことで、「脱成長」とはこういう考え方なのか、と初めて知った人が多かったんです。言葉は知っていても、実態を知らない人が意外に多い、ということを実感することができました。そしてもうひとつは、知ることによって選択肢をもったときにはじめて、自分は、自分の会社は、どっちに行きたいのかを考える機会を得られたということです。たとえ「グリーン成長」の方向に向かうとしても、脱成長の考え方も考慮しながら判断すると、正反合のプロセスを通じたより高度な判断が起こりやすくなると思います。
様々なものの見方、考え方を提供することを通じて、皆さんに色々と考えていただいて、よりよい選択肢を編み出していただくというのは、アカデミアの大切な役割です。私は、IMDを日本で代表する立場で、IMDに集まる世界の様々な情報や知識を日本社会にもたらす一方、日本の智慧や考え方、文化をIMDを通じて世界に伝えていくことにも取り組んでいます。
鎌田:ビジネススクールにおいて「脱成長」の議論をする時は、あまり現実的ではないトピックとして扱われるものですか?それとも、ひとつの可能性として語られるものですか?
高津:私が見た範囲では、理解できるけれど現実的には無理だろう、という反応がすごく多かったですね。20人くらいのエグゼクティブが参加するなかで、自分の会社は「脱成長」に向かうべきだと言う人はほとんどいない、いても数名だったと思います。ただ、その場でそのテーマで議論をしたことはすごく意味があったと思います。
鎌田:丸山さんのおっしゃる「欲望」について、あえて「脱成長」と「グリーン成長」の対比にあてはめると「脱成長」は「欲望」を否定するような存在で、「欲望」が前提にあるという考え方に立つと、「グリーン成長」の枠組みのなかで思考していくようなかたちになりますか?
丸山:人々が「グリーン成長」を素直に望めば、それが「欲望」の形をとれば、ということでしょう。でも、残念ながら多分そうはならない。だとすると、僕の感覚では、やはり第三の道にいくことですね。抽象的な理想論と聞こえるかもしれませんが、、晴れの日ばかりでなく雨の日もいい、雨音も風情があるよね、という自然な変化があっていい。もっと温和な、精神の安寧のなかで変化をしていくような、自然成長性の道があるんじゃないか、と思います。
鎌田:今おっしゃった「第三の自然成長」のようなものは、「脱成長」とは別のものですか?というのは、「脱成長」は「アンチ欲望」のように見られていることが多い気がしていて、「脱成長」が現実的ではないから別の道を、というのを最近よく見かけるので、丸山さんの考えているお話が、「脱成長」と同じなのか、違うのか。
丸山:「脱成長」の定義によっても違ってきますが、僕が少し危険視しているのは、「脱成長」と言葉にした瞬間に、その理念だけが走りだして独り歩きしてしまうことです。成長はよくないこと、みんなで我慢しましょう、という「べき論」になってしまう。それは、「欲望」を自由に解放しておくことによって新しいものが生まれ、新たな局面が生まれる、社会のダイナミズムを阻害すると思うので、「脱成長」がそういうものだと定義するならば、第三の道は「脱成長」とは別の道になるのではないか、と思います。
高津:ジェイソン・ヒッケルという経済人類学者が「脱成長」を定義しています。地球全体として使える資源には限りがある。例えばプライベートジェットやSUVなど先進国での過剰な資源消費と、途上国の発展のため生活水準をあげていくために必要な資源消費がある。それらを計画的・総合的に管理する施策が必要だ、ということです。近年「ウェルビーイング」という言葉も出てきていて、これも適切な日本語訳がまだ無いと思うのですが、丸山さんは「ウェルビーイング」と「欲望」は同じだと思いますか。
丸山:「ウェルビーイング」も明確な定義が定まっているとは言えないと思いますが、やはり言葉にした瞬間、トレンドの言葉となって、独り歩きしてしまっているような気がします。「欲望の資本主義」の中でも、アダム・スミス、ケインズなど「経済学の巨人」を扱ってきましたが、彼らは「経済学」の理論を構築したという以前に、むしろ人間観察や社会の形を丁寧に考察し人間の性を描き出した部分のほうが大きいはずなんです。「経済学者」以前にスミスは道徳学者ですし、ケインズは社会心理を読み解く文明批評家と言ってもいいぐらいです。それをたまたま後世の人々が「近代経済学」の理論のフレームに収めてしまったことから、やや誤解されているところがあるように思います。彼らも、“人間は「べき論」では動かない”と思っていたのではないかと思うのです。"サステナブルであるべき"とか、"ウェルビーイングが大事だ"、という概念が独り歩きすることに対しては、歴史に照らし合わせても、少し、警戒してしまいますね。
鎌田:イデオロギーに傾倒してしまわずに、みんなで考え、具体的に行動するためのキーワードとして「欲望」というものを使っている、ということでしょうか。
丸山:はい。ひとつのギミックとして、刺激的な問いかけをしていますが、番組を見ていただけるとそこから展開していくものは、そういうことですね。気づいてほしいのは、自らの欲しいものがわからない、本来欲しかったものがねじれ錯綜し、自分がわからなくなっていくことが、現代社会ではあり得ることだということ。それを認識することで、自分のなかでバランスを取っていくことはできないか、違う道の歩み方ができるのではないか、を一緒に考えるきっかけになればと思い、様々な番組を作っています。
高津:まさに私も勉強中で、本が一冊書けそうな内容ですが(笑)、今言える大きなポイントのひとつは、安里紗さんがおっしゃっていた「見る」ということだろうと思います。自分たちのビジネスが一体どこにどのように影響を与えているかということを「見る」、何か変わることによってどのような変化があるかを「見る」。そして、それを意識すること、いわゆるアウェアネス(awareness)が非常に重要です。最近聞いた面白い話で、あるチョコレート会社がサステナブルな会社でありたいと、製造工程のどこで最も温暖ガスを出しているかを調べると、なんと原材料である乳製品のもとである牛が出すメタンガスだということがわかった、と(牛のげっぷには、温室効果ガスのひとつであるメタンガスが含まれている)。それで、彼らは豆乳を使うという手段をとることにしたのだそうです。DXによって、様々なデータを計ることができるようになり、自分たちが何を消費していて、どこにどのような負担を与えているかを「見る」ことができ、そこから変化していくことが重要だと言われています。
鎌田:丸山さん、高津さんに聞いてみたいと思っていたのですが、プラネタリーバウンダリー(地球環境の境界、限界値)について、例えば気候変動問題など、多くの人が認知していて、人類が地球で継続的に生活していくためには何かしらの変化が必要だということは誰もがわかっています。一方で、なかなか抜本的なシステムの変革を、実際にやるというところまではいかない。これは、どういう背景だと思われますか?今すぐ変革するメリットより、変えることでのネガティブなインパクトが大きいので、ジワジワやっていこうというチョイスになっているのか、それとも、なんとなく現状が変えづらいのか。
丸山:これについて誠実に話し出すと2時間くらいかかりそうですね(笑)。経済思想家の斎藤幸平さんと、どう現状を変えていくか、似たような構図について、話題にしたことが過去にもありました。 彼が『人新世の「資本論」』を世に出す前のことだったと思いますが、アメリカでマルクスの思想に出会った斎藤さんは、当時、変革が必要な状況では、資本主義に対しても徹底的に理念を駆使して制限をかけることが必要という考え方だったと記憶します。僕は、人間は色々なものを知ってしまえば、頭ではわかっても、知ってしまった感覚に制限をかけられるような変化に耐えられないのではないか、というスタンスでした。ちょうど議論をしていた場所が、たくさんの種類のコーヒーから選べるカフェだったのですが、「例えば、今からこの店のコーヒーを1種類にします、と言われても、多くの消費者が納得しないのでは?」という問いに、斎藤さんが「いや、それでも2種類までと決めたなら、がんばるんですよ」とお答えになったことが今も記憶に残っています。今なら斎藤さんもどう答えられるか?わかりませんが、その気持ちは理解できても、やはり、理念だけでは人間の行動に制限をかけることは難しいと、僕は基本的に考えるのです。人間のそうした性を踏まえて考えないと、社会のどこかに歪みが生まれるように思えます。
高津:私が代表を務めるIMDビジネススクールでは、2023年6月に世界50カ国から450人のエグゼクティブ(企業幹部)が集まるプログラム「OWP」で、選択科目として初めて「グリーン成長(Green Growth)vs. 脱成長(De-growth)」を設定しました。ビジネススクールであれば、基本的には成長すべきだろうという方向になりがちですが、初めて脱成長について世界中のエグゼクティブと議論する、というかなり勇気のあるテーマで、結果的にとても面白い内容になりました。
面白かった理由は二つあります。まずひとつは「グリーン成長」との対立構造にしたことで、「脱成長」とはこういう考え方なのか、と初めて知った人が多かったんです。言葉は知っていても、実態を知らない人が意外に多い、ということを実感することができました。そしてもうひとつは、知ることによって選択肢をもったときにはじめて、自分は、自分の会社は、どっちに行きたいのかを考える機会を得られたということです。たとえ「グリーン成長」の方向に向かうとしても、脱成長の考え方も考慮しながら判断すると、正反合のプロセスを通じたより高度な判断が起こりやすくなると思います。
様々なものの見方、考え方を提供することを通じて、皆さんに色々と考えていただいて、よりよい選択肢を編み出していただくというのは、アカデミアの大切な役割です。私は、IMDを日本で代表する立場で、IMDに集まる世界の様々な情報や知識を日本社会にもたらす一方、日本の智慧や考え方、文化をIMDを通じて世界に伝えていくことにも取り組んでいます。
鎌田:ビジネススクールにおいて「脱成長」の議論をする時は、あまり現実的ではないトピックとして扱われるものですか?それとも、ひとつの可能性として語られるものですか?
高津:私が見た範囲では、理解できるけれど現実的には無理だろう、という反応がすごく多かったですね。20人くらいのエグゼクティブが参加するなかで、自分の会社は「脱成長」に向かうべきだと言う人はほとんどいない、いても数名だったと思います。ただ、その場でそのテーマで議論をしたことはすごく意味があったと思います。
鎌田:丸山さんのおっしゃる「欲望」について、あえて「脱成長」と「グリーン成長」の対比にあてはめると「脱成長」は「欲望」を否定するような存在で、「欲望」が前提にあるという考え方に立つと、「グリーン成長」の枠組みのなかで思考していくようなかたちになりますか?
丸山:人々が「グリーン成長」を素直に望めば、それが「欲望」の形をとれば、ということでしょう。でも、残念ながら多分そうはならない。だとすると、僕の感覚では、やはり第三の道にいくことですね。抽象的な理想論と聞こえるかもしれませんが、、晴れの日ばかりでなく雨の日もいい、雨音も風情があるよね、という自然な変化があっていい。もっと温和な、精神の安寧のなかで変化をしていくような、自然成長性の道があるんじゃないか、と思います。
鎌田:今おっしゃった「第三の自然成長」のようなものは、「脱成長」とは別のものですか?というのは、「脱成長」は「アンチ欲望」のように見られていることが多い気がしていて、「脱成長」が現実的ではないから別の道を、というのを最近よく見かけるので、丸山さんの考えているお話が、「脱成長」と同じなのか、違うのか。
丸山:「脱成長」の定義によっても違ってきますが、僕が少し危険視しているのは、「脱成長」と言葉にした瞬間に、その理念だけが走りだして独り歩きしてしまうことです。成長はよくないこと、みんなで我慢しましょう、という「べき論」になってしまう。それは、「欲望」を自由に解放しておくことによって新しいものが生まれ、新たな局面が生まれる、社会のダイナミズムを阻害すると思うので、「脱成長」がそういうものだと定義するならば、第三の道は「脱成長」とは別の道になるのではないか、と思います。
高津:ジェイソン・ヒッケルという経済人類学者が「脱成長」を定義しています。地球全体として使える資源には限りがある。例えばプライベートジェットやSUVなど先進国での過剰な資源消費と、途上国の発展のため生活水準をあげていくために必要な資源消費がある。それらを計画的・総合的に管理する施策が必要だ、ということです。近年「ウェルビーイング」という言葉も出てきていて、これも適切な日本語訳がまだ無いと思うのですが、丸山さんは「ウェルビーイング」と「欲望」は同じだと思いますか。
丸山:「ウェルビーイング」も明確な定義が定まっているとは言えないと思いますが、やはり言葉にした瞬間、トレンドの言葉となって、独り歩きしてしまっているような気がします。「欲望の資本主義」の中でも、アダム・スミス、ケインズなど「経済学の巨人」を扱ってきましたが、彼らは「経済学」の理論を構築したという以前に、むしろ人間観察や社会の形を丁寧に考察し人間の性を描き出した部分のほうが大きいはずなんです。「経済学者」以前にスミスは道徳学者ですし、ケインズは社会心理を読み解く文明批評家と言ってもいいぐらいです。それをたまたま後世の人々が「近代経済学」の理論のフレームに収めてしまったことから、やや誤解されているところがあるように思います。彼らも、“人間は「べき論」では動かない”と思っていたのではないかと思うのです。"サステナブルであるべき"とか、"ウェルビーイングが大事だ"、という概念が独り歩きすることに対しては、歴史に照らし合わせても、少し、警戒してしまいますね。
鎌田:イデオロギーに傾倒してしまわずに、みんなで考え、具体的に行動するためのキーワードとして「欲望」というものを使っている、ということでしょうか。
丸山:はい。ひとつのギミックとして、刺激的な問いかけをしていますが、番組を見ていただけるとそこから展開していくものは、そういうことですね。気づいてほしいのは、自らの欲しいものがわからない、本来欲しかったものがねじれ錯綜し、自分がわからなくなっていくことが、現代社会ではあり得ることだということ。それを認識することで、自分のなかでバランスを取っていくことはできないか、違う道の歩み方ができるのではないか、を一緒に考えるきっかけになればと思い、様々な番組を作っています。
正しさがないなかでは「考える場」をつくること自体がメッセージになる
高津:安里紗さんの「服のたね」プロジェクトの話に戻りますが、活動を通して、誰がどのような行動の変化を経験していますか。
鎌田:プロジェクト参加者の消費行動がどう変わったのかは、事後調査をしていないので不明ではありますが、参加されているのは、本当に一生活者として問いを持っている方々です。自分なりに考えを深めたいという意思がある方々ですね。丸山さんのお話の中にあったように、イデオロギーで突っ走ってそれが全部正しいとなってしまうと、問いをもって考えて行動してみる、という小さくとも大事なステップを飛ばしてしまう可能性があるのが危ないところなんだろうと思います。私が望んでいるのは、課題に対して具体的な変化が少しでも生まれることなので、まだ問いが生まれていない人やモヤモヤしてる人に対しても、どのように発信すれば、もう少し考えていこうと思ってもらえるのか、その表現はいつもすごく悩むところです。今日の議論のなかで、サステナビリティ、脱成長、SDGsなどのわかりやすく強い言葉が人を巻き込むのか、あるいはそれが逆に行動を阻害してしまうのか、「欲望の資本主義」という言葉でどのように発信されていこうとしているのかを聞けたことがよかったです。
高津:デザイナー、クリエイターの方とコラボレーションもされていると思います。そこではどのようなことをされていますか。
鎌田:「FASHON FRONTIER PROGRAM」では、クリエイティビティと、ソーシャルレスポンシビリティのどちらも高いレベルで実現しているデザイナーを評価し、讃える場、アワードを作っています。ファッションデザインの領域では、美しいものをつくる、まだ誰も生み出していない美しさ、というのを追求しています。それはもちろん大事で、それが評価される世界ですが、ものを生み出すというということに対する責任(ソーシャルレスポンシビリティ)を持っているかどうかも評価軸として加える、という試みです。
高津:具体的にはどのような評価軸があるのでしょうか。
鎌田:例えば循環についてどのくらい考えているのか、あるいは人権や動物福祉について、今問題と認識されている様々な課題に対して、どういう考えをもっているか、などです。もちろん全てに完璧に対処するのは不可能なので、どういうスタンスをもってものを生み出しているのかということも含めて提示してもらい、審査をしていきます。審査員はファッション産業の方だけでなく、建築家の田根剛さんや妹島和世さん、宇宙飛行士の山崎直子さんなど、多様な分野の方にお願いしています。固定された評価軸や、正しい解決策があるわけではないので、「衣服」がどう生み出されていくことが良いのか考える実験的な場であり、ものづくりのソーシャルレスポンシビリティとは何かを問う審査のあり方自体も考えながら、評価していく場になっています。
高津:もうひとつの軸、企業と行政とのアライアンスでは、具体的にどんな取り組みをされていますか。
鎌田:「ジャパンサステナブルファッションアライアンス(JSFA)」という企業連携プラットフォームで、繊維メーカー、アパレルさん、商社さん、リサイクル技術をもっている会社さんなど66社が会員企業として参加していらっしゃいます。これまで、ファッション業界の川上から川下までサステナビリティという切り口で議論する場がなかなかありませんでした。そこで、異なるプレーヤーを集めて話し合ってみると、自分の業種からは見えない環境負荷や、調達のときに何が難しくてできないのか、など微妙な溝が見えてきました。この共同体のなかで調整して改善できることもありますし、根本的に仕組みを変える必要があれば、その声を行政に届けることもできます。共通課題は何か、それに対するアクションは何か、方向性を考える場として、3年半ほど続けています。
高津:それぞれ非常に難しく、模索しながら、手探りで、議論しながらやっていらっしゃる活動なのですね。
丸山:安里紗さんの活動は、サステナブルな価値軸に則った仕掛けはあるけれども、実は運営していくにあたっては、それぞれの解釈によって広がっていくことに委ねていらっしゃるように感じました。「服のたね」でも、プロジェクトがどう動いていくかをずっと見守っている雰囲気があって、自然体の新しい第三の道として進めているのかなと思いました。ビジネスでは利益を出そうとして、どうしても直線的にイメージするところを、回り道を楽しむような余力があり、広い視野を持たれている感じがしますね。
鎌田:ありがとうございます。冒頭の高津さんのお話のフェーズ3「戦略をリセットする」で、コラボレーションというキーワードがあったと思いますが、やはり普段交わらないセクターの方が、一同に会して語り合う時に起きる化学反応が大事で、正しさがないなかでは、みんなで考える場をつくることでしかエネルギーは生まれないと思っているので、こういった設計になっているのかもしれないです。常に問題が認識されて、それに対してどういうふうに働きかけていくのがいいのかを考える場、議論の場を開いていくこと自体が、ひとつのメッセージになると思っています。
鎌田:プロジェクト参加者の消費行動がどう変わったのかは、事後調査をしていないので不明ではありますが、参加されているのは、本当に一生活者として問いを持っている方々です。自分なりに考えを深めたいという意思がある方々ですね。丸山さんのお話の中にあったように、イデオロギーで突っ走ってそれが全部正しいとなってしまうと、問いをもって考えて行動してみる、という小さくとも大事なステップを飛ばしてしまう可能性があるのが危ないところなんだろうと思います。私が望んでいるのは、課題に対して具体的な変化が少しでも生まれることなので、まだ問いが生まれていない人やモヤモヤしてる人に対しても、どのように発信すれば、もう少し考えていこうと思ってもらえるのか、その表現はいつもすごく悩むところです。今日の議論のなかで、サステナビリティ、脱成長、SDGsなどのわかりやすく強い言葉が人を巻き込むのか、あるいはそれが逆に行動を阻害してしまうのか、「欲望の資本主義」という言葉でどのように発信されていこうとしているのかを聞けたことがよかったです。
高津:デザイナー、クリエイターの方とコラボレーションもされていると思います。そこではどのようなことをされていますか。
鎌田:「FASHON FRONTIER PROGRAM」では、クリエイティビティと、ソーシャルレスポンシビリティのどちらも高いレベルで実現しているデザイナーを評価し、讃える場、アワードを作っています。ファッションデザインの領域では、美しいものをつくる、まだ誰も生み出していない美しさ、というのを追求しています。それはもちろん大事で、それが評価される世界ですが、ものを生み出すというということに対する責任(ソーシャルレスポンシビリティ)を持っているかどうかも評価軸として加える、という試みです。
高津:具体的にはどのような評価軸があるのでしょうか。
鎌田:例えば循環についてどのくらい考えているのか、あるいは人権や動物福祉について、今問題と認識されている様々な課題に対して、どういう考えをもっているか、などです。もちろん全てに完璧に対処するのは不可能なので、どういうスタンスをもってものを生み出しているのかということも含めて提示してもらい、審査をしていきます。審査員はファッション産業の方だけでなく、建築家の田根剛さんや妹島和世さん、宇宙飛行士の山崎直子さんなど、多様な分野の方にお願いしています。固定された評価軸や、正しい解決策があるわけではないので、「衣服」がどう生み出されていくことが良いのか考える実験的な場であり、ものづくりのソーシャルレスポンシビリティとは何かを問う審査のあり方自体も考えながら、評価していく場になっています。
高津:もうひとつの軸、企業と行政とのアライアンスでは、具体的にどんな取り組みをされていますか。
鎌田:「ジャパンサステナブルファッションアライアンス(JSFA)」という企業連携プラットフォームで、繊維メーカー、アパレルさん、商社さん、リサイクル技術をもっている会社さんなど66社が会員企業として参加していらっしゃいます。これまで、ファッション業界の川上から川下までサステナビリティという切り口で議論する場がなかなかありませんでした。そこで、異なるプレーヤーを集めて話し合ってみると、自分の業種からは見えない環境負荷や、調達のときに何が難しくてできないのか、など微妙な溝が見えてきました。この共同体のなかで調整して改善できることもありますし、根本的に仕組みを変える必要があれば、その声を行政に届けることもできます。共通課題は何か、それに対するアクションは何か、方向性を考える場として、3年半ほど続けています。
高津:それぞれ非常に難しく、模索しながら、手探りで、議論しながらやっていらっしゃる活動なのですね。
丸山:安里紗さんの活動は、サステナブルな価値軸に則った仕掛けはあるけれども、実は運営していくにあたっては、それぞれの解釈によって広がっていくことに委ねていらっしゃるように感じました。「服のたね」でも、プロジェクトがどう動いていくかをずっと見守っている雰囲気があって、自然体の新しい第三の道として進めているのかなと思いました。ビジネスでは利益を出そうとして、どうしても直線的にイメージするところを、回り道を楽しむような余力があり、広い視野を持たれている感じがしますね。
鎌田:ありがとうございます。冒頭の高津さんのお話のフェーズ3「戦略をリセットする」で、コラボレーションというキーワードがあったと思いますが、やはり普段交わらないセクターの方が、一同に会して語り合う時に起きる化学反応が大事で、正しさがないなかでは、みんなで考える場をつくることでしかエネルギーは生まれないと思っているので、こういった設計になっているのかもしれないです。常に問題が認識されて、それに対してどういうふうに働きかけていくのがいいのかを考える場、議論の場を開いていくこと自体が、ひとつのメッセージになると思っています。
同じ日常であっても、そこから新鮮さを感じ取ることができる。そこに本当の知性がある。
会場:「欲望」という言葉が誤解されたり、悪いイメージをもっているのではないかと言われたように、私もそういうイメージがありました。しかし、世の中を動かすには当然エネルギーが必要で、原動力がないと始まらないので、それが「欲望」であることは全く問題ないと思いました。マズローの5段階でも、欲張りということではなく、上にいくのが自然ですよね。私ごとですが、今は車に乗りたいと思わず、朝ウォーキングすることで満足度が高いです、年を重ねたからかもしれないですが(笑)。要は、有形資産から無形資産にいくことで、サステナビリティの問題はかなり解決するのではないかと思います。物をつくらないで満足できるなら「欲望」がリードしてもいいのではないかと思うのですが。
丸山:ありがとうございます。ちなみに、ひとつ補足しますと、マズローの『人間性の心理学』を読むと、5段階の最後の「自己実現欲求」の定義は、僕などは、老荘思想を連想してしまうような面白い言葉が並ぶのですね。「渡し舟で10回川を渡った人が、11回目の時にも初めて彼が乗った時と同じ感情、美的印象、興奮を再現する」ような境地という比喩で語られていて、定常状態でも、マンネリ化することなく、常に新鮮な気持ちでいられる、そうした感覚の大事さをマズローは説いています。もしかしたら、最後に到達する世界は、もっと自らの縛りから解放された、解脱をイメージさせるような感覚の世界であって、多くのビジネス書で捉えられているような自己実現欲求とはだいぶ異なるイメージかもしれません。そうしたところにまで「欲望」が到達すれば、もはや心配はないのかもしれませんが。
鎌田:11回目でも1回目のように新鮮に感じるというのは、受取力が高いということだと思います。「服のたね」プロジェクトをやりながら、自分自身にも感じる変化なのですが、毎日の食べる、着るという繰り返しやっている行為に対する解像度が、私たちはとても低いのではないか、と気付かされます。例えば、自宅できゅうりを育てて、ようやく収穫して食べたら、味が薄くて美味しくなかったんです。そうすると、普段スーパーで売っているきゅうりがすごく有り難く感じます。同じように、普段通り過ぎている喜び、こちらが解像度が低いことでキャッチできていない感動できるポイントが、いっぱいあると思います。その境地に向かうには、色々な学びを経ていくことで新鮮さを受け続けられるということでしょうか。
高津:そうですね。その段階に至るのは、マズローの図にあるような下の段階の欲求(生理的欲求、社会的欲求など)を担保したあとで達するものかもしれません。例えば、私には16歳の息子がいるのですが、彼にいま老荘思想のようなことを言っても通用しないかな、と。また、年齢だけでなく、それぞれの国の経済的な段階によって、受け入れやすいフェーズと、受け入れられないフェーズがあるのではないかなと思うのです。
丸山:もちろんそうですね。発展段階で、いろんな状況の国々、地域があると思いますが、安里紗さんが言われたように、個人として毎日同じ日常であっても、そこから新鮮さを感じ取ることができる、そこの部分に本当の知性があるんじゃないかと思います。そう考えると、どこの国の、どこの発展段階にいる人であっても、実現できることなのではないかと感じます。だんだん宗教家みたいになってきましたが(笑)、それが人々の価値観のベースにあるような社会の構築を目指すことが大事なのではないかと思います。そういう感覚で自らの状況に対して満ち足りるということを今一度考えてもらって、決して向上心がないわけではなく、ちょっとでも見る風景が変わるように、多少でも番組が、見る人の感覚が変わる、そのきっかけになればいいと、いつもどんな番組でもやっています。最後は、どんな国の状況があっても、人間の意識、認識の問題であろうと思います。
高津:活発な議論をありがとうございました。最後に、私の感想をお伝えして終わりにしたいと思います。
丸山さんから、知の巨人(マルクス、マズロー、アダム・スミスなど)が、私たちが一般的に彼らの書物などから解釈しているものよりも、もっと遥かに深くて人間的で、広い世界を見ていたんじゃないか、というお話がありました。私たちは、今の資本主義社会において、彼らが見つめていたであろう人間が本来持っているもの、感覚を、もう一度理解しようとする必要がある、と思いました。
安里紗さんは、総じて「見えるようにしていく」ことが大切だという話をされていたと思います。自分たちの服がどのようにできているのかを考えるために、綿づくりをし、一着の服ができるまでの工程を「見えるようにしていく」。ときに見え過ぎるのは疲れる、という議論があるものの、改めて「見る」というのがどれくらい大事であるか、見るべきものを見過ごしてはいけない、と思いました。今日はありがとうございました。
(左から)高津尚志さん、鎌田安里紗さん、丸山俊一さん
丸山:ありがとうございます。ちなみに、ひとつ補足しますと、マズローの『人間性の心理学』を読むと、5段階の最後の「自己実現欲求」の定義は、僕などは、老荘思想を連想してしまうような面白い言葉が並ぶのですね。「渡し舟で10回川を渡った人が、11回目の時にも初めて彼が乗った時と同じ感情、美的印象、興奮を再現する」ような境地という比喩で語られていて、定常状態でも、マンネリ化することなく、常に新鮮な気持ちでいられる、そうした感覚の大事さをマズローは説いています。もしかしたら、最後に到達する世界は、もっと自らの縛りから解放された、解脱をイメージさせるような感覚の世界であって、多くのビジネス書で捉えられているような自己実現欲求とはだいぶ異なるイメージかもしれません。そうしたところにまで「欲望」が到達すれば、もはや心配はないのかもしれませんが。
鎌田:11回目でも1回目のように新鮮に感じるというのは、受取力が高いということだと思います。「服のたね」プロジェクトをやりながら、自分自身にも感じる変化なのですが、毎日の食べる、着るという繰り返しやっている行為に対する解像度が、私たちはとても低いのではないか、と気付かされます。例えば、自宅できゅうりを育てて、ようやく収穫して食べたら、味が薄くて美味しくなかったんです。そうすると、普段スーパーで売っているきゅうりがすごく有り難く感じます。同じように、普段通り過ぎている喜び、こちらが解像度が低いことでキャッチできていない感動できるポイントが、いっぱいあると思います。その境地に向かうには、色々な学びを経ていくことで新鮮さを受け続けられるということでしょうか。
高津:そうですね。その段階に至るのは、マズローの図にあるような下の段階の欲求(生理的欲求、社会的欲求など)を担保したあとで達するものかもしれません。例えば、私には16歳の息子がいるのですが、彼にいま老荘思想のようなことを言っても通用しないかな、と。また、年齢だけでなく、それぞれの国の経済的な段階によって、受け入れやすいフェーズと、受け入れられないフェーズがあるのではないかなと思うのです。
丸山:もちろんそうですね。発展段階で、いろんな状況の国々、地域があると思いますが、安里紗さんが言われたように、個人として毎日同じ日常であっても、そこから新鮮さを感じ取ることができる、そこの部分に本当の知性があるんじゃないかと思います。そう考えると、どこの国の、どこの発展段階にいる人であっても、実現できることなのではないかと感じます。だんだん宗教家みたいになってきましたが(笑)、それが人々の価値観のベースにあるような社会の構築を目指すことが大事なのではないかと思います。そういう感覚で自らの状況に対して満ち足りるということを今一度考えてもらって、決して向上心がないわけではなく、ちょっとでも見る風景が変わるように、多少でも番組が、見る人の感覚が変わる、そのきっかけになればいいと、いつもどんな番組でもやっています。最後は、どんな国の状況があっても、人間の意識、認識の問題であろうと思います。
高津:活発な議論をありがとうございました。最後に、私の感想をお伝えして終わりにしたいと思います。
丸山さんから、知の巨人(マルクス、マズロー、アダム・スミスなど)が、私たちが一般的に彼らの書物などから解釈しているものよりも、もっと遥かに深くて人間的で、広い世界を見ていたんじゃないか、というお話がありました。私たちは、今の資本主義社会において、彼らが見つめていたであろう人間が本来持っているもの、感覚を、もう一度理解しようとする必要がある、と思いました。
安里紗さんは、総じて「見えるようにしていく」ことが大切だという話をされていたと思います。自分たちの服がどのようにできているのかを考えるために、綿づくりをし、一着の服ができるまでの工程を「見えるようにしていく」。ときに見え過ぎるのは疲れる、という議論があるものの、改めて「見る」というのがどれくらい大事であるか、見るべきものを見過ごしてはいけない、と思いました。今日はありがとうございました。
(左から)高津尚志さん、鎌田安里紗さん、丸山俊一さん
「欲望」以外が資本主義のエンジンとなり得るのか?
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