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「政治と秋刀魚 日本と暮らして四五年」

BIZセミナーその他
更新日 : 2008年07月17日 (木)

第3章 アメリカ社会の強さは、「遅咲き」を許す力にある

ジェラルド・カーティスさん

ジェラルド・カーティス: 私が日本の専門家になった過程を考えると、日本でもこういうことは全くないわけではないのですが、非常にアメリカ的な話だと思います。学者、特に一流といわれる大学の先生というと、多分、多くの日本人から見れば、人間のタイプが大体決まっていると思うのです。まず、勉強が好き。子どものころから試験が上手で、受験のために一所懸命勉強をして東大とか京大とかいい大学に入って、先生に注目されて、学者になってと。何よりも勉強が好きで、頭がよくて、ガリ勉……多分、こういうイメージが強いと思うのです。

私は日本に学者の友だちがたくさんいますが、大体学者というのは、そういうものなのです。というのは、例えば日本の二流、三流といわれる大学を出て、それからどこかの大学院に入って、東大の先生になるということは非常に難しい。例外中の例外です。ただ、そうしたことはアメリカには結構あることで、私が日本の専門家、学者になったプロセスを考えると、多分、日本にはなかなかないプロセスだったと思います。

私は勉強が嫌いでした。今でもそれほど勉強は好きな方ではありません。高校時代はごく普通の成績で、勉強よりも、とにかく音楽が好きでした。ピアノを弾くのが好きで、ティーンエイジャーになったらジャズに凝って。だから、「音楽大学に行って、ピアノを専攻したい」と思ったのです。決して裕福な家ではありませんでしたから、とにかく授業料の安い大学だけに申し込んで、結局、ニューヨーク州立大学の音楽学部に入りました。2年間そこで勉強して、ジャズミュージシャンになろうと思っていたのです。

ところが、音楽大学に行ったら、すばらしい才能を持っている人がどれほど多いか、ということに気付きました。自分には、神様はそれほどの才能をくれなかったと思って、学校をやめることにしたのです。

私はニューヨークのブルックリンという下町生まれのニューヨーク育ちですが、卒業した大学はニュー・メキシコ大学です。日本で講演をするときなどに「ニュー・メキシコ大学を卒業した」と紹介されるので、西部のニュー・メキシコの大学を出て、それからニューヨークに行ったと思う人が多いようですが、初めてニューヨーク州を離れたのは、この音楽大学をやめることにしたときでした。

たまたまそのとき、友だちのミュージシャンが来て、「今までニュー・メキシコのアルバカーキに住んでいて、そこで音楽家として生活をしていたんだけど、メキシカン系のきれいな女性が多くて、外国みたいなところだ」と言うのを聞いて、どうせニューヨーク州立大学はやめようと思っていたから、瞬間的に「ニュー・メキシコに行く」と決断をしたのです。

私は14歳ぐらいからセミプロでピアノを演奏していて、その頃からニューヨークの有名な音楽労働組合に入っていました。その会員証をニュー・メキシコ、アルバカーキに持っていけば絶対に仕事がとれると言われて、それで冒険的に、ニューヨークを初めて離れようと思ったのです。

ニュー・メキシコに着いた次の日からクラブの仕事をとれました。結局ニュー・メキシコには2年住んで、毎晩クラブでピアノを弾いて、それで大学に入り直しました。ニュー・メキシコ大学に入って社会科学を勉強したのですが、そこで初めて勉強に興味を持ったのです。

私には娘が2人いますが、彼女たちはどの大学を受験するか決めるために、『アメリカの大学トップ500』という本を見ていました。500校も載っているので、ほとんどの大学が載っているのですが、我がニュー・メキシコ大学は入っていませんでした。トップ500にも入っていない大学なのです。

私はその大学を卒業して、奨学金をもらってコロンビア大学の大学院に行き、それでコロンビア大学の教授になったのです。これは非常にアメリカ的な話、アメリカのいい面だと思います。

英語に「late bloomer」という言葉があります。日本語ですと「遅咲き」です。アメリカは、遅咲きに対して非常に寛容な社会です。高校を卒業して大学3年生まであまり勉強が好きではなく、3年から勉強してトップ500にも入っていない大学を卒業して、その後コロンビア大学院に入り、それでアイビー・リーグの学校の教授になれたというのは、アメリカ社会の強さだと思います。