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【第5回】私たちは「コモングッド」を取り戻せるか
更新日 : 2024年11月20日
(水)
【第5回】私たちは「コモングッド」を取り戻せるか
「私たちを日本人として束ねるような良識というものが、はたして今もあるのだろうか」。この発言を聞いたら十人中九人は保守的なにおいを感じるだろう。ここで「日本人」を「アメリカ人」に置き換えてみよう。これは、アメリカ民主党政権を長年支えた政治経済学者、ロバート・ライシュの言葉である。11月5日のアメリカ大統領選挙ではドナルド・トランプが圧勝した。トランプはアメリカをアメリカたらしめている良識や公共善の破壊者のように言われているが、「彼は『結果』である」とライシュは言う。トランプが原因でアメリカがおかしくなったわけではない。
コモングッドは特定の思想ではなく「何世代にもわたって積み上げられた『信頼』の集合体」であるとライシュはいう。アメリカ建国当時のコモングッドは先住民や黒人や女性を対象としていなかったが、差別や疎外を克服し、より包摂性の高い社会を目指す原動力となった。その事実もまたコモングッドの価値を裏付けるものだ。信頼の集合体としてのコモングッドは「暗黙のルール」としても機能してきた。しかし「富と権力を持つ一部の人々が、さらに多くの富と権力を手中に得んがために」ルールを平気で破り、積み上げられた信頼を搾取するようになった。
本書の第4章では、ジョンソン大統領がアメリカの艦船が攻撃されたという虚偽の主張をしてベトナム戦争を激化させたトンキン湾事件(1964年)から、2017年のウェルス・ファーゴ事件(同銀行が顧客に無断で行員に口座を開設させたり、不要な自動車保険を販売させたりしていた)までの政治スキャンダルと経済スキャンダルの長いリストが掲載されている。本書がアメリカで出版されたのが2018年だが、そこから6年のあいだにこのリストにおびただしい事例が追加されたことは言うまでもない。1960年代以前にも不正や汚職はあったが、「不正がより深刻化している」とライシュは言う。かつては大スキャンダルとてとりあげられた事件も、今では「ああまたか」と人々が肩をすくめるくらいのものでしかなくなり、かつてなら何週間も何か月も追求された不正や疑惑が数日で忘れ去られていく。日本でも同じことがいえるだろう。
富や権力に近いところからの信用の綻びは、社会全体に波及していった。「勝つためならなんでもあり」の政治(共和党も民主党も)、「大儲けするためならなんでもあり」の経済、そしてその帰結としてもたらされた「経済を操るためならなんでもあり」の風潮。「なんでもあり」で権力を握った者と、「なんでもあり」で儲けた者が、その権力と富を維持するために、信頼の上に築かれてきた暗黙のルールを無視して自分たちのいいルールに書き換えていった。これがライシュから見たコモングッド衰退のプロセスである。
トランプ支持者から見れば、「なんでもあり」で権力を手にしたトランプ、「なんでもあり」で富を築いたマスクは、きれいごとばかり言って誰も幸せにしない(と彼らが思っている)民主党のリーダーたちより、よほど頼れる存在に見えるのだろう。ただ、彼らの期待はおそらく裏切られる。テクノ・リバタリアンは、つまるところ無政府主義者か、橘玲がいうところの「総督府功利主義」という立場に落ち着く。前者は文字通り無政府でまわる仕組みを理想とし、後者は行政がなくても回る仕組み、つまりテクノロジーによる監視社会を指向する。いずれも草の根の連帯といった非効率なプロセスを回避する発想だ。
橘が言うように、テクノ・リバタリアンが生まれるのは自由主義を推し進めてきた結果であり、「自然の摂理」であるとしたら、ライシュが懐かしむ「良識のある」世界に戻ろうとすることはある意味で「不自然」な動きであり、そこには摩擦や衝突が生じる。それが今日多くの自由民主主義国家で起きていることではないだろうか。ここまで分断が進んでしまった社会においては、過去の「暗黙のルール」を取り戻そうとするより「新しいルール」による社会の組みなおしを目指すほうが現実的な選択肢なのかもしれない。橘が「第二世代」のテクノ・リバタリアンとして紹介しているグレン・ワイルの提唱するマーケットメカニズムを用いた私有財産の否定(部分所有権)や、ブロックチェーンのコミュニティで研究されているクアドラティックボーティング(一人一票に変わる複数分散投票の仕組み)にはそうした新しいルールの可能性を感じる。ローカルレベルで機能しているやり方の再評価から生まれる「新しいルール」もあるかもしれない。一方で、自分にいちばん近いところから信頼の集合体を修復していく地道な作業も必要だ。ここはどうやってもテクノロジーで「加速」することはできない部分である。
執筆者:中嶋 愛
編集者。ビジネス系出版社で雑誌、単行本、ウェブコンテンツの編集に携わったのち、ソーシャルイノベーションの専門誌、Stanford Social Innovation Reviewの日本版立ち上げに参画。「スタンフォード・ソーシャルイノベーション・レビュー 日本版」創刊編集長。スタンフォード大学修士修了。同志社大学客員教授。庭と建築巡りが好きです。
ライシュから見たコモングッド衰退のプロセス
ライシュは著書『コモングッド』で、アメリカ人がコモングッドよりも自分の権利を拡大することにこだわるようになったのは1970年以降のことだと述べている。1960年代の公民権運動や女性解放運動、そして反戦運動、そうしたものを貫く価値観がコモングッドであり、個人の権利のために他者と連帯することは尊いことだった。社会には不正、不条理、不平等が今以上に溢れていたかもしれないが、少なくともそれに連帯して立ち向かうことは市民的義務であることが共有されていた。それがいつの頃からか、個人の利益のために他者を犠牲にすることが「標準的」な行為となり、いまや「おびただしい数のナルシスト」が量産されているとライシュは嘆く。コモングッドは特定の思想ではなく「何世代にもわたって積み上げられた『信頼』の集合体」であるとライシュはいう。アメリカ建国当時のコモングッドは先住民や黒人や女性を対象としていなかったが、差別や疎外を克服し、より包摂性の高い社会を目指す原動力となった。その事実もまたコモングッドの価値を裏付けるものだ。信頼の集合体としてのコモングッドは「暗黙のルール」としても機能してきた。しかし「富と権力を持つ一部の人々が、さらに多くの富と権力を手中に得んがために」ルールを平気で破り、積み上げられた信頼を搾取するようになった。
本書の第4章では、ジョンソン大統領がアメリカの艦船が攻撃されたという虚偽の主張をしてベトナム戦争を激化させたトンキン湾事件(1964年)から、2017年のウェルス・ファーゴ事件(同銀行が顧客に無断で行員に口座を開設させたり、不要な自動車保険を販売させたりしていた)までの政治スキャンダルと経済スキャンダルの長いリストが掲載されている。本書がアメリカで出版されたのが2018年だが、そこから6年のあいだにこのリストにおびただしい事例が追加されたことは言うまでもない。1960年代以前にも不正や汚職はあったが、「不正がより深刻化している」とライシュは言う。かつては大スキャンダルとてとりあげられた事件も、今では「ああまたか」と人々が肩をすくめるくらいのものでしかなくなり、かつてなら何週間も何か月も追求された不正や疑惑が数日で忘れ去られていく。日本でも同じことがいえるだろう。
富や権力に近いところからの信用の綻びは、社会全体に波及していった。「勝つためならなんでもあり」の政治(共和党も民主党も)、「大儲けするためならなんでもあり」の経済、そしてその帰結としてもたらされた「経済を操るためならなんでもあり」の風潮。「なんでもあり」で権力を握った者と、「なんでもあり」で儲けた者が、その権力と富を維持するために、信頼の上に築かれてきた暗黙のルールを無視して自分たちのいいルールに書き換えていった。これがライシュから見たコモングッド衰退のプロセスである。
暗黙のルールを書き換えている急先鋒「テクノ・リバタリアン」
暗黙のルールを書き換えている急先鋒が「テクノ・リバタリアン」という層だろう。橘玲は著書『テクノ・リバタリアン』で、彼らを「道徳的・政治的価値のなかで自由をもっとも重要だと考える」「自由原理主義者」で、きわめて高い論理・数学的知能をもつ人たち、と定義している。その典型がイーロン・マスクだ。次期政権では、新しく創設される「政府効率化省」のトップに任命された。マスクはとてつもなく高い知能、極端なリスク選好、そして無慈悲で差別的な言動でも知られ、地球上でもっとも裕福な人間の一人である。トランプ支持者から見れば、「なんでもあり」で権力を手にしたトランプ、「なんでもあり」で富を築いたマスクは、きれいごとばかり言って誰も幸せにしない(と彼らが思っている)民主党のリーダーたちより、よほど頼れる存在に見えるのだろう。ただ、彼らの期待はおそらく裏切られる。テクノ・リバタリアンは、つまるところ無政府主義者か、橘玲がいうところの「総督府功利主義」という立場に落ち着く。前者は文字通り無政府でまわる仕組みを理想とし、後者は行政がなくても回る仕組み、つまりテクノロジーによる監視社会を指向する。いずれも草の根の連帯といった非効率なプロセスを回避する発想だ。
新しいルールの可能性
ライシュはコモングッドを取り戻すために、次のような提案をしている。リーダーは奉仕者となるべし、倫理的基準としての名誉と恥を適切に使うべし、ジャーナリズムやアカデミアは公の真実を復活させるべし、市民教育を義務化すべし。どれも大切なことだ。しかしここで提案されていることは、コモングッドという「インフラ」の土台の上でこそ機能するもので、土台が崩れているところでは、信頼の綻びを修復するための活動が自然に生まれるわけもなく、これを「強いリーダーシップ」の下でやろうとした場合はまた別の歪みが出てくるだろう。といってシニシズムに陥る人が増えればコモングッドの衰退にますます拍車がかかる。橘が言うように、テクノ・リバタリアンが生まれるのは自由主義を推し進めてきた結果であり、「自然の摂理」であるとしたら、ライシュが懐かしむ「良識のある」世界に戻ろうとすることはある意味で「不自然」な動きであり、そこには摩擦や衝突が生じる。それが今日多くの自由民主主義国家で起きていることではないだろうか。ここまで分断が進んでしまった社会においては、過去の「暗黙のルール」を取り戻そうとするより「新しいルール」による社会の組みなおしを目指すほうが現実的な選択肢なのかもしれない。橘が「第二世代」のテクノ・リバタリアンとして紹介しているグレン・ワイルの提唱するマーケットメカニズムを用いた私有財産の否定(部分所有権)や、ブロックチェーンのコミュニティで研究されているクアドラティックボーティング(一人一票に変わる複数分散投票の仕組み)にはそうした新しいルールの可能性を感じる。ローカルレベルで機能しているやり方の再評価から生まれる「新しいルール」もあるかもしれない。一方で、自分にいちばん近いところから信頼の集合体を修復していく地道な作業も必要だ。ここはどうやってもテクノロジーで「加速」することはできない部分である。
執筆者:中嶋 愛
編集者。ビジネス系出版社で雑誌、単行本、ウェブコンテンツの編集に携わったのち、ソーシャルイノベーションの専門誌、Stanford Social Innovation Reviewの日本版立ち上げに参画。「スタンフォード・ソーシャルイノベーション・レビュー 日本版」創刊編集長。スタンフォード大学修士修了。同志社大学客員教授。庭と建築巡りが好きです。
コモングッド 暴走する資本主義社会で倫理を語る
ロバート・B・ライシュ東洋経済新報社
テクノ・リバタリアン 世界を変える唯一の思想
橘玲文藝春秋
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