記事・レポート

ネットいじめ~ウェブ社会と終わりなき「キャラ戦争」

更新日 : 2009年08月18日 (火)

第6章 ネットコミュニケーションの背景にあるニーズの分析が必要

荻上チキさん

荻上チキ:  もともと学校空間では、誰かをたたくというコミュニケーションが頻繁に行われやすいという状況があるわけです。例えば社会学者の宮台真司さんは、学校空間のことを「満員電車状況」というふうに言っています。これはさきほどの「迫害可能性密度」が非常に高い状態のことを指し現す秀逸な比ゆですね。同じ地域に生まれた、同じ年の人であるという、ただそれだけで中学校とか小学校というものは、まったく属性というか、生まれとか出身、趣味、趣向、タイプも違うような30人を、とりあえず1つの教室、満員状態の電車の中に押し込むように入れる。そこの中で起こるストレスには、基本的に「みんな仲良く」という、ある種の教育の掲げている理念によって、何とか解消していきましょうという建前があります。

でも、私たちが大人になるということは、ある種、自分が選び取る人間関係を取捨選択するようになっていくということでもある。つまり、大人になるということは、いじめをしなくなることではなくて、そもそもいじめをしなくてはいけないような人間関係を選ばなくて済むような場所にいくという知恵を獲得していくプロセスでもあるわけです。ところが、中学校とか小学校というのは、基本的にそういったものが許されず、ものすごいストレスフルなやつと一緒に、背中合わせとかになったりしなければいけないわけです。

特に現在は少子化で、生徒数が減っている。昔、いじめや学級崩壊が話題になった際、「少人数制クラスにして、先生を二人くらいつけてちゃんと全体を見渡せるようにすればいいんじゃないか」という意見を多く聞きました。しかし、少子化の状態で、少人数クラスであるということは、人間関係の流動性期待が下がる、つまりネガティブ化してしまった人間関係のシャッフルへの期待ができにくくなってしまうというデメリットについては、真剣に語られていなかった。あたかも、教師が今まで以上に管理しておけばそれですむかのような、牧歌的な観察が行われていたわけです。

誰かをたたくというコミュニケーションをそもそも求めてしまう状況の集団は、ネットを手にしたのであれば、ネット上でそういった悪口を書くし、それがない状態であれば、例えば交換ノートとか、あるいは放課後の体育館裏とか便所とか、人に見えないところに、そういったチャンネルを設ける。ネットというアーキテクトには過剰に着目するが、学校というアーキテクトについて考えないのは、本当にいじめについて考えているとは思えない態度なわけですね。

また、ネット上で起こっている現象を分析するためには、書き込み同士の力関係、あるいはネット上につくられたアーキテクチャの指向性みたいなものを分析するだけでは不足で、実際にそれを利用している背景、つまりそのメディアがどのような欲望のもとにつくられたもので、どういった属性の人たちがどういうニーズに基づいて、そういったサイトをつくり上げてきたのかというプロセスを分析しないと、ネット上で行われているコミュニケーションというものの表面だけしか見えてこないのではないか。さらに言えばそれは、ネットいじめに限らず、あらゆる現象にあてはまるのではないか。そうした理解が、この「ネットいじめ」および「学校勝手サイト」の分析からも見えてきます。

『ネットいじめ』の本の概略をご紹介したところで、ここからはもう少し話の幅を広げていきましょう。「情報社会」と叫ばれる現代においては、Web2.0とか新しい現象を呼称するようなサイト、あるいは現象だけを取り上げて「ネット上で起こっていることは、こういうことなんです」みたいなコミュニケーションが、ここ2、3年、少なくともジャーナリズム界隈、あるいは評論界隈では行われ続けてきました。

例えば流行語大賞。毎年どういったネット用語がノミネートされているのか、僕はいつも気にしているのですけれども、2006年は「GyaO(ギャオ)」「ググる」「ミクシィ」「ユーチューブ(YouTube)」がノミネートしていて、2007年は「ネットカフェ難民」「炎上」「闇サイト」というキーワードが登場していました。

梅田望夫さんの『ウェブ進化論』という本に象徴されるように、インターネットの時代がやってくる、Web2.0という新しいムーブメントがやってきて、1億総表現社会にどんどん乗っていけば、新しい表現、新しい市場の可能性が出てくるから、みんなインターネットの世界においでよ——そういった言説が広がっていたのが2006年。

ところが2007年になってネットを万人が使うようになってくると、僕が取り上げたような「ネットいじめ」とか、「学校裏サイト」みたいな事例がバンバン報道されるようになってきて、「ネットカフェ難民」「炎上」「闇サイト」とか、悪いやつ、ネットとか昨日まで触れたことのないやつがいきなりネットに入ってきて痛い目にあうみたいなことも起こる。そういうことを再確認してきた年であったわけです。

じゃあ、2008年のノミネートワードは何なのかなと気にしていたら、「フィルタリング」のみ。インターネットというものが、それこそ当たり前のツールというか、とりたてて騒ぐこともないツールみたいな形に落ち着き、あくまで技術的なコントロール対象という落としどころを社会的に与えられたのかな、という感じがいたします。

それによって、インターネットというものがすでに中間集団、僕たちの社会にだんだん定着しつつあるような状況において、新しい現象という形で分析するのではなくて、「そもそもメディアとかインターネットに対して、僕たちが何を欲望していたのか」ということをそろそろ分析してもいい段階になったのではないかと考えているわけです。