記事・レポート

生命観を問い直す

更新日 : 2009年04月06日 (月)

第5章 命の終わりは「脳死」? 命の始まりは「脳始」?

福岡伸一 分子生物学者/青山学院大学教授

福岡伸一: ブラック・ジャックのような外科医が、人の顔から鼻を、つまり嗅覚を司っているパーツを体から切り離し、別の体に移植しようと考えたとします。ブラック・ジャックのメスは、一体どれくらい深くえぐれば鼻を切り取ることができるのでしょうか。

鼻の奥の天井には嗅覚上皮細胞と呼ばれる薄い層があり、匂いの分子を感受するレセプターが無数に並んでいます。レセプターからは何千万本もの神経線維が出ていて、脳に至っています。脳では、匂い分子のパターンを分析する細胞が固まって存在しています。そこから全身に向けて神経回路が分布し、骨や筋肉や皮膚につながっています。

嗅覚は、別に鼻に限局してはいないのです。ですから、ブラック・ジャックのメスはどんどん奥へ進んでいき、結局、体全体を取ってこないと鼻を切り離すことはできないことを知るのです。

それは目や口、あるいは心臓や肝臓も同様で、部品として体にはめ込まれてはいないのです。それらは、もともと1つの受精卵が分裂・分化して、互いに他の細胞と連関を保ちながら出来上がった一群の細胞であって、本当の境界はありません。しかし私たちは体を部分に分けて機能を当てはめ、あるいは部分ごとに医者の専門集団がいます。これもまた、「部分」の幻想にとらわれている一例ではないかと思います。

私たちは、本来連続している時間にも人工的な境界を入れようとしています。端的な例が脳死問題です。法律上、「脳死は人の死」と決められてはいますが、そのことに違和感を持っている人は多いと思います。

本当の個体の死は、私たちの体を構成する60兆個の細胞すべてが、自転車操業を「エントロピー増大の法則」に明け渡し、「動的平衡状態」を停止した瞬間のはずです。古典的な死の3兆候は、「呼吸が止まる」「心臓が止まる」「瞳孔が散大して戻らなくなる」ことですが、その後も数時間、あるいは十数時間は生きながらえる細胞があり、そういった細胞は脳死よりもずっと後まで生きています。

これと同じ問題として、「私たちがいつ生まれるか」という逆の議論が今後現れてくると思います。「脳が死ぬときが、人が死ぬとき」と定義したのであれば、ロジックの対称性から「脳が生まれるときが、人が人となるとき」という議論が必ず出てくるはずです。

人間が人としての出発点をどこにとるか、生物学的には非常に難しい問題です。すべての細胞は細胞から生み出されるので、ある意味、生命は38億年の連続した歴史そのものです。しかし、生命現象が「動的平衡状態」の上に成り立っていると考えると、一番わかりやすい説明は、精子と卵子が合体して受精卵ができた時点と考えるのが妥当だと思います。

ところが、脳死の議論をする人たちは、脳ができて意識ができたときが人としての出発点とします。それは一体いつのことか。受精卵が分裂していくに従い、徐々に細胞は専門化していきます。最初の神経細胞が現れるのは受精後21日前後。神経細胞が組織化され、シナプスという連結ができて脳が形成されるのは、受精後25~27週頃です。

そして、最初の脳波が現れ、おそらく意識が成立するのは30週頃です。それが人としての出発点とするならば、現在、中絶が可能なのは21週目までですが、それよりもずっと後になります。

どうして、人の出発点を「脳が始まる時」と定義しようとする議論が出てくるのか。それは、人の死を脳死と定めたい人たちがいるからです。「脳が死ぬときが人の死」と定めると、脳死死体から、まだ生きているはずの細胞の塊を取り出す操作を合法的に行うことが可能になります。

同じように、「脳が始まるときが人間の出発点」と定義すると、それ以前は、まだ人格のない細胞の塊に過ぎないということになります。その細胞を利用したい人たちが世界中にいっぱいいます。再生医療、ES細胞、さまざまな細胞の利用を考えている人たちにとって非常に好都合な状況が訪れるのです。

そう考えていくと先端医療や最先端生物学は、私たちの寿命を延ばしてくれるわけではなく、私たちの寿命を「脳始」と「脳死」という両側から縮めているに過ぎないわけです。


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福岡伸一 (生物学者)

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