記事・レポート

宮本亜門: 違うから面白い、違わないから素晴らしい

更新日 : 2009年02月23日 (月)

第4章 『アイ・ガット・マーマン』の初上演前日に起きた9.11

宮本亜門さん

宮本亜門: そして、ある話が来ました。2000年のころだったと思います。ゴージャス・エンターテイメントという名前の会社のリーダーである吉井久美子さんというプロデューサーから「亜門さん、あなたが一番最初つくった『アイ・ガット・マーマン』という舞台を、いつかニューヨークでやりませんか?」という話をいただいたのです。

彼女とは偶然、ニューヨークの全く違う、あるインタビューの仕事で出会い、意気投合していたのです。しかし、海外での仕事のチャンスをいただけるとは、夢にも思っていませんでした。それから、ニューヨークで出演者をオーディションし、2001年8月から稽古を始め、9月10日最終稽古を終えました。

そして9月12日から、マンハッタンの外のスタンフォードというところで、いよいよ1週間上演ができるというところまでいきついたとき——皆さん、もうお気付きの方もいらっしゃると思うのですが、2001年9月11日のテロと、ちょうどぶつかってしまったのです。

最終稽古がマンハッタンで終わって、1日休みがあり、「いよいよ、今日から劇場で仕込みだ」という朝に、あの貿易センターに1機ぶつかったニュースが飛び込んできたのです。

そして2機目がぶつかるのをテレビで見ました。私はテレビでの出来事に愕き過ぎていたのか実感がなく、「とにかく私は普通の生活をしなければ。まずは劇場に行こう」と思ってマンハッタンのアパートを出たのです。

そのとき私がいたのは38丁目、ニューヨークのマンハッタンは狭いですから、車で世界貿易センターから20分ぐらいの所でしょう。まず部屋から出たとき、空が真っ青なのが印象的でした。雲ひとつないきれいな空。悲劇が起きたとは絶対思えない。角の花屋さんはいつものように水を撒いていたし、向こうにあるパン屋さんにも朝作っただろうパンがずらっと並べてあって、全くいつもと変わらないマンハッタンでした。

ところが、そのあと地下鉄に乗ったら、みんながザワザワしている。グランド・セントラル・ステーションに行ったら、そこはパニック状態でした。みんな走っているのです。基本的にアメリカ人は走らないと思っていました。走るというのは非常事態というイメージがあり、劇場でも僕はよく「走るな」と言われたほどです。

アカデミーヒルズのランチョンセミナー「違うから面白い、違わないから素晴らしい」の様子
そして電車に乗ったら、それがマンハッタン島を出る最後の電車となりました。政府がテロを恐れ、全ての列車をストップさせたのです。車内では全員が携帯を持っていましたが、誰もつながらない。ラジオを持っている人がいて、「今、何が起こった」「えっ、ペンタゴンで?」と大声で話してくれました。その恐ろしい状況の中にいて、結局僕は、その日マンハッタンを離れることができたものの、劇場には誰も来ていない状態でした。

そこにいた舞台監督が、「亜門, Welcome to New York!」と言って泣き崩れました。誰もが戦場と化した街で、驚愕していたのです。

僕の頭の中では、「これが僕が昔から想っていたブロードウェイのスタート?」という混乱もありました。しかしそんなことを言っている場合ではありません。そのあと数日間、出演者と会い、みんなを慰め抱き合いました。

僕がみんなを守る立場だったのです。「我々がやっていることに意味があるのか、ないのか。やるとしたら、なぜ頑張るのか」と、みんなと話し合いながら、結局5日後にブロードウェイの灯がともったわけです。

ブロードウェイの灯がともったというのは、私たちの舞台が開いたということです。あのときの市長であるジュリアーノが「ブロードウェイの灯をともす」と言ったおかげで、我々の舞台も上演することができたのです。

しかし、そのときの舞台は普通の状態ではありませんでした。お客さんは劇場に来るだけで緊迫していました。「どこかで爆弾が」と皆おびえていたのです。作品が良いか悪いかというよりも、一応無事に終わったというのが、僕のアメリカでのスタートでした。

該当講座

違うから面白い、違わないから素晴らしい
宮本亜門 (演出家)

2004年、東洋人初の演出家としてニューヨークのオンブロードウェイにて「太平洋序曲」を上演した宮本亜門氏。演劇・ミュージカル界で最高の栄誉とされるトニー賞4部門にノミネートされ、米国の演劇界でも高い評価を得ました。 その後も次々に国内外で作品を発表し、常に新しい表現を試みるとともに、テレビ番組出演....


BIZセミナー その他