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宮本亜門: 違うから面白い、違わないから素晴らしい

更新日 : 2009年01月23日 (金)

第2章 なぜ演出家になったのか

宮本亜門さん

宮本亜門: どうして私が演出家になったかというと、まずは新橋演舞場の向かいにある喫茶店で生まれたのが大きな原因でしょう。その喫茶店で、今も82歳の親父がコーヒーをいれております。私は劇場の前で生まれ育ったことで、お芝居が好きになったのです。

それに母は松竹歌劇団出身のレビューガールでした。母は私に舞台への想いをいつも語っていました。小さい僕を劇場に連れて行き「あれがいいのよ、見てごらんなさい」と教え、素晴らしい役者には客席から屋号を飛ばしていました、「中村屋、待ってました!」。

それが子どもの僕にとっては恥ずかしかった。女性の声が後ろからすると、お客さまがバッと振り返るのですが、そのときお袋は「恥ずかしがらなくてもいいのよ、素晴らしいものには手をたたきなさい」と返すのです。そのぐらい舞台を愛していた母親でした。

その彼女は、私が21歳のとき亡くなりました。突然、それも私が出演していた舞台の初日の朝です。私の下宿の浴室で、私の洗濯物を洗いながら倒れていました。脳溢血でした。救急車で運んだのですが、だめでした。僕は突然バトンタッチされたのです、お袋の想い、「よし、舞台で生きていこう」という決意を固めたのが、この21歳のときです。

その後、何とか演出家になろうと頑張ったのですが、うまくいきません。博品館劇場、日生劇場、いろいろなところで出演者として頑張りました。それも、いつかは演出家になりたいという想いからです。

演出家が面白いと思ったのは、音楽を聴いたり、本を読むと、その中のイメージがどんどん膨らんでくるからです。「この膨らんだ感動を人に伝えたい、何とかこのイメージを人に伝えたい。だって、僕が今まで舞台で見ていない色づかい、世界観が脳裏に広がるんだから」と思っていました。

しかし、現実はなかなか厳しく、演出家にはなれない。そして20代の最後、29歳のときです。借金をして、もうこれをやるしかないと決めたのが『アイ・ガット・マーマン』という作品でした。

築地本願寺の中にある、名前がブディストホールという大変小さな、200人ぐらいしか入らない劇場です。もちろんブディストでなくても入れる、かわいらしい劇場です。そこで『アイ・ガット・マーマン』という作品をやりました。

3日間しか上演しなかったのですが、1日目は50人ぐらいのお客さん。2日目はなぜかいっぱい。3日目はなんと立ち見。「あっ、こんなことがあるんだ」と喜んでいたら、いつの間かどんどんとお客さんが入り、再演から売り切れになったのです。

そのあと女性誌が来て、「新しいタイプの演出家が出た、この童顔の演出家は何だ?」というふうに扱われ、いつの間にか、大劇場、日生劇場で、植木等さんや大地真央さんが出たミュージカルをやらせてもらいました。僕も気がついたら、「違いがわかる男」としてコーヒーを飲んでいたわけです(笑)。

そのあと、なぜかテレビ番組の司会もやらせてもらうようになり、皆さんにこうやって少しずつ知っていただけたのだと思います。

該当講座

違うから面白い、違わないから素晴らしい
宮本亜門 (演出家)

2004年、東洋人初の演出家としてニューヨークのオンブロードウェイにて「太平洋序曲」を上演した宮本亜門氏。演劇・ミュージカル界で最高の栄誉とされるトニー賞4部門にノミネートされ、米国の演劇界でも高い評価を得ました。 その後も次々に国内外で作品を発表し、常に新しい表現を試みるとともに、テレビ番組出演....


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