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突き抜けるアート ~社会と人をつなぐもの~

変容するアートが人を変え、世界を変える:猪子寿之×津田大介

更新日 : 2015年12月09日 (水)

第6章 「変容」から生まれるあいまいな関係


 
鑑賞者が“参加”するアート

猪子寿之: 変容ということでは、もう1つあります。それは、鑑賞者の存在やふるまいによって、作品も様々に変容していくこと。

津田大介: インタラクティブになったことで、作品と鑑賞者の関係も変わると。

猪子寿之: 従来のアートは、作品と鑑賞者はそれぞれ独立して存在し、互いに干渉しませんでした。例えば、モナリザを観た人は様々な感情を抱くかもしれない。作品の前をたくさんの人が通り過ぎるかもしれない。しかし、どれほど人の心が変化しても、多くの人が作品の前を通っても、モナリザはいつも通りのモナリザのまま。

一方、インタラクティブということは、作品と鑑賞者を分け隔てていた境界線がなくなり、両者の関係は極めてあいまいになります。いうなれば、作品の中に鑑賞者が“参加”できるようになり、鑑賞者との関係の中で1つの作品がつくられていく。

さらに、作品を取り巻く空間が拡大すれば、複数人が1つの作品を見ることになる。そうなれば、自分だけでなく、他人の存在によっても作品が変容する。津田さんという存在が作品に影響を与えているとすれば、それを観る僕にとっては、津田さんまで含めて1つの作品になるわけです。




リアルな自分、アートの中の自分

猪子寿之: 前述の国東半島芸術祭の作品は「花と人、コントロールできないけれども、共に生きる」というタイトルでしたが、映し出される映像に人間は出てこない。しかし、鏡に映り込む人の姿、花の映像を変容させている人のふるまいも含めて、1つの作品になっている、という意味です。

この花は勝手に生まれ、勝手に咲いて、時間が経って寿命が来ると勝手に散ります。しかし、人が花に近寄ったり触れたりすると、寿命が来ていなくても、はらはらと散ってしまう。反対に、花から離れていくと、新しい花が生まれ始める。

津田大介: 鑑賞者という存在がトリガーになって強制的に散ったり、咲き誇ったりする。

猪子寿之: そうです。僕は変容する作品を通じて、従来までの作品と鑑賞者の関係が変えられると考えています。だからこそ、「作品と鑑賞者との境界線が極めてあいまいで、区別がつかない」ことを分かりやすく伝えたい、従来のアートとはまったく概念が異なることを体感してほしかった。鏡に囲まれた空間にしたのも、それが理由です。

津田大介: リアルの自分と鏡の中(作品の中)にいる自分。存在という点でも、あいまいな意識を植えつけるためにやっていると。

猪子寿之: そうですね。鏡の中にいる花に囲まれた自分も含めて、1つの作品になる。それを同じ空間にいる他人も観る。例えば、花が咲き乱れるこの空間で、津田さんが暴れまくったとする。

津田大介: おっ、走り回って、花を散らしまくりますよ(笑)。

猪子寿之: 散りっぱなしで、延々咲かないかもしれない(笑)。しかし、延々咲かないことも、1つの作品として成立している。どこまでが作品で、どこまでが作品ではないのか、よく分からなくなる。それが変容するアートの面白さだと思います。


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六本木アートカレッジ 突き抜けるアート~社会と人をつなぐもの~

世の中に新しい価値を送り出すウルトラテクノロジスト集団チームラボ代表、猪子寿之氏と、政治・経済・カルチャーなど独自の視点で発信している津田大介氏がアートの可能性を語ります。